藤原実資

藤原実資/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安 光る君へ

『光る君へ』で異彩を放つ藤原実資(ロバート秋山)史実ではどんな貴族だった?

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道長との不思議な関係

藤原実資藤原道長の両者は、家来同士でも何度か諍いが起きたりもしました。

それでも実資は表立って反発はせず、道長にしてもイケ好かない雰囲気を醸し出しつ、能力を認めていたフシがあります。

道長は、身体頑健というタイプではなく、たびたび病気で出仕を休んだり、辞表を出したりしていたのですが、長和元年(1012年)に伏せったときにこんな噂が立ちました。

「実資、道綱、隆家、懐平、通任たちは、道長が重病になって喜んでいる」

古い時代においては、噂が立っただけで政治的な致命傷となることも珍しくありません。

実資もそう感じ、覚悟を決めていました。

しかし道長は

「実資殿と道綱についてはそんなことはないだろう」

と述べたそうで、それを伝え聞いた実資は安堵したといいます。

また、道長が長和五年(1016年)に重病になったとき、実資は

「天下の柱石が失われてしまう」

と憂慮の気持ちを日記に書いていました。なかなか切実な書き方ですよね。

藤原道長
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それでも一条天皇の次に即位した三条天皇と道長が政治的に対立すると、実資らしい行動に出ます。

ほとんどの貴族は道長に追従=三条天皇から遠ざかり、道長におもねらない実資だけが天皇サイドに残ったのです。

しかし、実資にしても、真っ向から道長と対立するわけにはいきません。

この時点での皇太子は道長の外孫であり、しばらくすれば道長が外戚として名実ともに政治を担うことはほぼ確定。

三条天皇にしても、実資を引き立て過ぎれば道長との対立をますます深めることになり、迂闊なことはできません。

そのうち三条天皇は眼病を患って失明寸前にまでなってしまい、道長はここぞとばかりに退位を強く迫ります。

と、困り果てた三条天皇は、最後の抵抗として自分の第一皇子である敦明親王を次の皇太子にすることを条件として退位を承諾。

道長もこれをいったん呑みました。

こうして長和五年(1016年)に三条天皇は退位し、道長の孫である敦成親王が後一条天皇として即位し、皇太子には敦明親王が立てられます。

実はこのとき、敦明親王の春宮(東宮・皇太子のこと)大夫に実資が指名されていました。

しかし実資は老齢であることを理由に断ります。

本当の理由は、敦明親王の後ろ盾が心もとなく、道長との正面対決を避ける狙いがあったのでしょう。

実際、翌寛仁元年(1017年)に三条上皇が崩御すると、敦明親王は自ら東宮の地位を下りますので、実資の判断は正しかったといえそうです。

 


刀伊の入寇で重要発言

寛仁三年(1019年)、自ら「老体」と称するような年齢になっていた実資ですが、その頭脳は衰えを見せません。

この年の3月、九州方面に大陸からの賊が攻め込んできました。

まずは対馬・壱岐を襲撃して島民を殺害したり攫ったりするだけでなく、牛馬を殺し、民家も焼き払うなど、暴虐の限りを尽くす異国の軍船50余隻。

この難敵を打ち払うため、大宰府の役人らが動員されます。

現代では【刀伊の入寇】と呼ばれますね。

現地で指揮を取ったのは、大宰権帥・藤原隆家でした。

隆家は、藤原道隆の息子で藤原伊周の弟。つまり藤原道長の甥にあたる紛れもない貴公子ですが、道長との政争に敗れて太宰府にいました。

それが、かなりの武闘派貴族だったため、【刀伊の入寇】という危機に際しても自軍をよく率いて迎撃し、大陸からの外敵を相手に勝利を収めるのです。

ある意味、スカッとする話なのですが、歴史の授業でもあまり大きくは取り上げられませんよね。

もしも敗れていたら、さらに攻め込まれて大問題となり、扱いは違ったものになったでしょう。

しかし、隆家たちは勝ってしまった。

だからこその問題が当時の朝廷内で湧き上がります。

彼らは首尾よく敵を迎撃して勝利したのに、戦闘時点では朝廷からの命令が届いておらず、必死の防戦が“私戦”として片付けられそうになったのです。

要は「褒美なんか出さんよ」ということですね。

後々のことを考えた場合、「勝手に軍を動かしても手柄になればOK」という基準ができてしまう危険性もありましたので、意見が割れるのは致し方ない面もあります。

そんな場面で実資は主張します。

「命令に忠実なことは大切ですが、勲功ある者へ恩賞を与えなければ、今後、有事の際に進んで対処しようという者がいなくなってしまいますよ」

これには反対派も納得するしかなく、現地で戦った者たいに褒賞が与えられることになりました。

 


60代で右大臣 驚愕の享年90

当時の基準ではかなりの老齢である60代を迎えても、藤原実資は矍鑠(かくしゃく)としており、治安元年(1021年)には右大臣にまで上っています。

さらに皇太弟傅(当時の皇太弟は彰子の次男・敦良親王、のちの後朱雀天皇)も兼ねていました。

そんなに重職を兼ねていると寿命が縮まりそうですよね。

いえいえ、実資はなんとその後25年も長生きするのです。

とんでもないタフネスぶりで、亡くなったのは永承元年(1046年)1月18日。

驚愕の享年90です。

政界の長老として活躍し続けた実資を慕い、実資邸には身分の上下を問わず多くの人々が集まり、慟哭したといいます。

最後に『今昔物語集』に載っている実資の逸話を見ておきましょう。

ある日、実資が宮中から車に乗って帰る途中、「跳ね歩く小さな油瓶」という珍妙なものを見かけました。

不思議に思って追いかけると、とある家の門の鍵穴をくぐって入っていく。

その日はそれ以上のことはせず、後日、実資が使いの者をやって調べさせると、長く病みついていたその家の娘が亡くなったという情報を手に入れました。

実資は「やはりあれは物の怪だったのだ」と思ったとか。

今昔物語集では実資の非凡ぶりを称えているのですが、車に乗っているとはいえ自分で追いかけた実資の度胸に感心すべきかもしれません。

”賢人右府”と称されるほどの博識、聡明さを持ち。

権力者におもねらない芯の強さもありつつ。

褒め言葉にはちょっと弱くて。

それでいて度胸がある……。

藤原実資という人物を振り返ると、90歳という長寿も影響しているのか、いくつもの魅力が浮かび上がってきます。

大河ドラマ『光る君へ』は『小右記』も参考にして作られている。

もしかしたら私達は日曜夜8時に、実資の物語を見ているのかもしれません。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
紫式部/山本淳子『紫式部日記 現代語訳付き(角川ソフィア文庫)』(→amazon
服藤早苗/日本歴史学会『人物叢書 藤原彰子』(→amazon
源顕兼/倉本一宏『古事談 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』(→amazon
ほか

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