藤原妍子

画像はイメージです(源氏物語絵巻/wikipediaより引用)

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道長の次女・藤原妍子は派手好きで自己主張強め!三条天皇に嫁ぎ一人娘は皇統を繋ぐ

大河ドラマ『光る君へ』で見上愛さん演じる藤原彰子が注目されています。

一条天皇に入内して、今後、まひろ(紫式部)との交流が始まればさらに脚光を浴びるでしょうが、個人的には、もっとクローズアップしてもらいたい道長の姫がいます。

次女の藤原妍子(けんし/きよこ)です。

何と言ってもキャラが際だっていて、例えばこの彰子を相手にもなかなか刺激的なエピソードがあり、飽きさせないのです。

しかも、妍子の夫は、道長とは相性の悪い三条天皇ですので、そうした方面からも見どころはバッチリ。

道長の甥・藤原隆家ほどぶっ飛んだキャラではないものの、内裏にあって彼女はなかなかの存在かと思われます。

ではいったい藤原妍子とはどんな女性で、いかなる生涯を送ったのか。振り返ってみましょう。

 

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誕生と幼少期

藤原妍子は正暦五年3月(994年4月)、藤原道長の次女として生まれました。

母は嫡妻の源倫子

実は、道長の次妻といえる立場だった源明子もこの年に藤原顕信を産んでいます。同年の異母兄弟がいたんですね。

妻たちの立場の違いこそあれ、道長のマメさがうかがえます。

妍子と顕信が生まれた翌年の長徳元年(995年)に天然痘と思われる疫病が大流行。

当時の政治中枢にいた人々もバタバタ倒れていった上に、関白の藤原道隆(道長の長兄)もこのころ糖尿病と思われる病で薨去し、その後の関白・藤原道兼(道長の次兄)も疫病に斃れる、慌ただしい情勢になりました。

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こうした状況を受けて、道長は道隆の息子・藤原伊周と火花を散らしていくことになり、幼い子供たちを抱えた源倫子も源明子も内心は肝を冷やしていたでしょう。

しかし、長徳二年(996年)に【長徳の変】が起きて伊周と隆家が失脚すると、道隆一族の中関白家は大いに没落。

そのあおりを受けて出家した藤原定子は、その後、一条天皇の子を産むなどして、他の公卿たちから顰蹙を買い、長徳五年(999年)には道長の長女であり、妍子の姉でもある藤原彰子が入内するなど、目まぐるしく時代は動いていきました。

幼い妍子が世の情勢を意識することはさすがに少なかったでしょうが、両親や周囲の人々からただならぬ雰囲気は伝わっていたかもしれません。

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入内

それからしばらく時間が飛び、藤原妍子の結婚へ。

寛弘七年(1010年)2月、妍子は、皇太子である居貞親王(後の三条天皇)に入内することとなりました。

大河ドラマ『光る君へ』では、三条天皇と藤原道長の間に不穏な空気が漂っていましたが、結局、道長は娘を嫁がせているのですね。

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居貞親王と藤原妍子の二人は、父娘のような年齢差。

なんせ居貞親王の第一子である敦明親王が妍子と同い年ですから、凄まじいまでの政略の香りが漂ってきます。

興味深いのが『栄花物語』での表現でしょうか。

結婚当初、居貞親王が気まずそうにしていること、道長が手配した妍子の調度品などを「当世風で派手」と評しているシーンがあるのです。

これが『源氏物語』の女三の宮に対する光源氏の反応とよく似ています。

『栄花物語』と『源氏物語』が相互に影響したか、あるいは、この話が事実であり当時の貴族社会で広く知られていたかのどちらかでしょうか。

居貞親王も最初こそ年齢差に戸惑ったものの、妍子のもとにも通うようになります。

これは道長への建前もあり、同時に皇室の事情も影響していました。

この時代の皇統は

円融天皇(父)

一条天皇(子)

冷泉天皇(父)

花山天皇(兄)

居貞親王(弟、三条天皇)

という二系統あり、道長はこの後どちらの系統が続いてもいいように、

・一条天皇に藤原彰子

・居貞親王に藤原妍子

を嫁がせたのですね。

そのため妍子からも皇子が産まれることを熱望しており、利害の一致する居貞親王も理解を示して、若い妍子のもとにも通ったのです。

居貞親王には長年連れ添った藤原娍子という妻もいたのですが、このころ既にアラフォー。

彼女は四男二女に恵まれ、末っ子の師明親王(もろあきらしんのう)は、妍子の入内時点でまだ5歳でしたので、若くて立場も上である妍子と正面切って争う気にはならなかったでしょう。

この辺も「光源氏・紫の上・女三の宮」の関係を彷彿とさせますね。

紫の上に実子はいませんが、女三の宮が降嫁したあたりで、養女・明石の中宮が産んだ子供たちを世話していました。

 

第一子は禎子内親王

そんなわけで、夫だけでなく、もう一人の妻からも気を遣われたであろう藤原妍子。

彼女は美貌だったともいわれていますので、居貞親王も自然と惹かれていったのかもしれません。

その後、めでたく懐妊となるも、長和二年(1013年)に産まれてきたのは皇子ではなく、女子の禎子内親王(ていしないしんのう)でした。

藤原道長はガッカリしたでしょう。

もちろん当人たちには何の責任もありません。

内親王であっても一条天皇の皇子やその後の世代に嫁がせることはできますので、道長は気を取り直し、禎子内親王を外孫として厚遇しました。

実際、禎子内親王は万寿四年(1027年)、一条天皇の子である後朱雀天皇の中宮になっていて、道長からすると外孫同士が結婚したことになります。

「どう転んでも我が家の血が入った皇子を得て、朝廷に影響を与え続けたい!」

そんな強い意志がうかがえますね。

なお、先程から女三の宮と妍子の立場が似ているという話をしてきましたが、決定的な違いもあります。

あまり意思が見えてこない女三の宮に対し、妍子は派手好きだったとされ、『栄花物語』などで度々きょうだいを困らせている描写があるのです。

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