大河ドラマ『光る君へ』で瀧内公美さんが演じる源明子。
源倫子と並ぶ藤原道長の妻として存在感がありますが、同時に“重たい女”という印象も否めません。
その一例が「自分の息子をもっと出世させろ」と道長に迫っていた場面でしょう。
彼女の思い詰めた表情からは、並々ならぬ執念を感じさせましたが、そこで浮かび上がってくるのが史実における明子の息子・藤原能信(よしのぶ)です。
この能信、摂政・関白になるような出世には恵まれません。
しかし独自のポジションを確立し、藤原の摂関体制を狂わせる――なんともトリッキーな政治活動をするのです。
しかも数々の暴力事件も起こすなど、ドラマの中の源明子をさらに激しくしたような特性も持ち合わせていました。
キャラとしては非常に魅力的な、藤原能信の生涯を振り返ってみましょう。
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官位は早いうちに頭打ち
藤原能信は長徳元年(995年)に生まれました。
父・道長と母・源明子の間には全部で四男二女の子供がいて、能信はその3番目。
・頼宗
・顕信
・能信
・寛子
・尊子
・長家
他の兄弟が倫子を母に持つ藤原頼通や藤原教通らと協調しながらの出世を果たそうとしていたのに対し、あくまで独自路線を貫いたのが能信です。
一体なぜそんなことを?
まず能信の役職遍歴を見てみましょう。
・権中納言
・中宮権大夫
・按察使(あぜち)
・皇后宮大夫
・春宮大夫
・権大納言
重職に任じられてはおりますが、家柄を考えると、頂点まで昇り詰めたとはとても言えない。
位階についても長和三年(1014年)に従三位になってから、長い間そのままでした。
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暴力事件の数々を起こす
その鬱憤晴らしなのか、藤原能信はたびたび暴力事件を起こしています。
年次に沿って見て参りましょう。
・寛弘六年(1009年)
異母姉である藤原彰子の子・敦良親王(のちの後朱雀天皇)の誕生を祝う儀式中に、能信は一騒動起こしてしまっています。
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どのような経緯があったのか。詳細は不明ながら、能信は出席していた左近衛少将・藤原伊成を罵倒し、能信の従者が伊成を暴行したのです。
伊成はその後、憤慨して出家してしまいます。
「怒りのあまり出家」というのも、現代人からすると理解に苦しむかもしれませんが、これは当時の「名誉を傷つけられて恥ずかしいので出家するしかない!」という価値観によります。
平安貴族は「恥をかいたら寺に入りたい」になるわけですね。
・長和二年(1013年)3月30日
この日は石清水八幡宮の臨時祭で、貴賤問わず見物客が大勢集まっていました。
能信が後からやってくると、先に来ていた貴族のうち数名が能信に
「隣で見物してもよろしいでしょうか?」
と、おうかがいを立てにやってきました。
能信が道長の息子だということは皆知っていましたので、ご機嫌を取ろうとしたのです。
しかし、彼らは散々な目に遭ってしまいます。
お伺いを立てたうちの大中臣輔親(おおなかとみのすけちか)と源懐信(なりのぶ)の二人が、能信の従者によって無理やり牛車から引きずり降ろされてしまったのです。
これを見た他の二人(源兼澄と高階成順)は走って逃げたためなんとか無事でしたが、”一定以上の身分の人は牛車で移動するもの”という時代ですから、引きずり降ろされた二人はひどい恥辱を感じたことでしょう。
さらに、この騒動を牛車の中から見ていた藤原景斉(かげなり/かげただ)と源兼澄(かねずみ)は、能信の従者たちから牛車に石を投げつけられたといいます。
結局、景斉は引きずり下ろされて一方的に殴られているので、二重三重の損ですね。
暴力事件は、まだ続きます。
次は長和五年(1016年)5月のことです。
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