藤原能信

画像はイメージです(『栄花物語』/wikipediaより引用)

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暴力事件を繰り返し摂関体制を狂わせた 藤原能信(道長と明子の息子)がヤバい

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敦明親王の東宮自体は能信を経由して

寛仁元年(1017年)7月、三条天皇の第一皇子・敦明親王が「東宮の地位を辞退したい」と申し出ました。

その相手が藤原能信であり、能信経由で道長に伝えられています。

敦明親王の東宮辞退は、孫を即位させたい道長が避けて通れない道。

誰から見ても「道長にとって喜ばしいこと」のは明らかであり、むろん能信だけの手柄ではありませんが、父であり最大の権力者を喜ばせる役目を請け負ったのです。

また、寛仁二年(1018年)には後一条天皇の元服の儀に参加したり、藤原威子が天皇の元へ参上する際のお供に加わったり、普段は真面目に仕事をしていることが記録されています。

優れた歌才もありました。

長和四年(1015年)に父・道長の五十歳記念のお祝いや、長元三年(1030年)の章子内親王著袴祝いなどで歌を詠むだけでなく、彼の作品は『後拾遺和歌集』にも入選しているのです。

章子内親王とは、後一条天皇と能信の異母妹・藤原威子の間に生まれた皇女のこと。

その儀式で歌を詠むのですから貴族として名誉なことであり、なんだか不思議でなりません。

能信が普段から乱暴な人だったら、「荒三位(荒々しい従三位)」と呼ばれた藤原道雅や、「さがな者(乱暴者)」と恐れられた藤原隆家のように、何らかの呼び名を付けられていそうなもの。

それが無いというのは、道長の威光が影響していたのか、何なのか。

そしてその道長が亡くなると、能信は一気に存在感を放ちます。

寛徳二年(1045年)、後朱雀天皇の譲位に、能信が関わってくるのです。

後朱雀天皇(東宮期の敦良親王)/wikipediaより引用

 


異母兄・頼通と対立して勝利を収める

後朱雀天皇が譲位すれば、次の天皇はその長子である後冷泉天皇と決まっていました。

しかし、新たな皇太子を誰にするか?という点は未定。

藤原能信はそこで後朱雀天皇の意志を尊重し、後冷泉天皇の異母弟・尊仁親王(たかひとしんのう・後三条天皇)を強く推し、皇太子にするのです。

能信の異母兄である藤原頼通の反対を押し切ってのことでした。

しかも能信は、東宮大夫を務めた上で、尊仁親王に養女の藤原茂子を入内させ、次世代にガッチリ食い込む体制を整えます。

藤原氏にとっては、必ずしも好ましい状況とは言えません。

なぜなら後三条天皇は、禎子内親王と三条天皇の子であり、一時的だとしても藤原氏の強固な外戚ポジションがほころぶことになってしまう。

後三条天皇/wikipediaより引用

能信からすると、頼通に対抗する手段であり、絶好のチャンスだと感じたかもしれません。

一か八かの賭けに出たのでしょうか。

 


貞仁親王に期待していた能信

藤原能信は、賭けに勝ちました。

養女の藤原茂子は天喜元年(1053年)に貞仁親王(のちの白河天皇)を産み、能信は将来の外戚ポジションを手に入れることに成功した……と思い通りにはなりません。

治暦元年(1065年)2月9日に亡くなってしまうのです。

結局、義理の孫の即位には立ち会えませんでした。

能信は、貞仁親王に相当期待していたらしく、この十年の間に、伊勢大輔とやり取りした歌が伝わっています。

伊勢大輔が貞仁親王に関して

君見れば 塵もくもらで 万代(よろずよ)の齢(よわい)をのみも ますかがみかな

【意訳】若宮のお顔は塵ひとつなく澄み切っておられるので、このよく澄んだ鏡がより一層御代を増してくれるでしょう

と詠み、それに対して能信が以下のように返歌しているのです。

くもりなき 鏡の光 ますますも 照らさん影に かくれざらめや

【意訳】曇りなき鏡がますます光を増して照らしていくように、若宮の威光も増していくだろう。別のものの影に寄る必要などないほどに

貞仁親王の幼少期の逸話はあまり多くありませんが、”玉のような子”だったのでしょうか。

余談ですが、伊勢大輔は百人一首

いにしへの 奈良の都の 八重桜 今日九重に 匂ひぬるかな

で有名な人であり、この歌を詠んだ経緯に紫式部が関わっています。

こちらは紫式部の先輩女房っぷりをよく表したエピソードですので、『光る君へ』でも登場するかもしれません。

 

白河天皇の即位で摂関政治は傾く

白河天皇は、院政の隆盛を確立させた人物として知られます。

即位した延久五年(1073年)に能信へ正一位太政大臣を追贈しており、外祖父への追慕や敬愛がうかがえます。

白河天皇というと『平家物語』における「賀茂川の水、双六の賽、山法師(以外のものは思い通りにできる)」で知られ、”強烈なキャラで心の強い人”という印象を持ちがちです。

白河天皇/wikipediaより引用

しかし少年期にはあまり頼りにできる人もおらず、寂しさを感じたことも少なくなかったと思われます。

その分、幼い頃に外祖父や母から可愛がられた記憶が残っていたのかもしれません。

この白河天皇が譲位後に院政を始めたことにより摂関政治が終わり、やがて平家政権ができて、さらに武家の時代へと繋がっていきました。

そのきっかけが道長の息子だったと考えると、なんとも因果というか、奇縁というか。

歴史の面白さを噛み締めたくなりますね。


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長月 七紀・記

【参考】
繁田信一『平安貴族 嫉妬と寵愛の作法』(→amazon
繁田信一『平安朝の事件簿 王朝びとの殺人・強盗・汚職』(→amazon
繁田信一『殴り合う貴族たち』(→amazon
『御堂関白記』
『小右記』
国史大辞典
日本人名大辞典
世界大百科事典

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