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【藤原能信】
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実資の日記『小右記』に”合戦”と書かれる
・長和五年(1016年)5月26日
この前日(25日)に藤原致行(むねゆき・故人)の妻の家に大江至孝という者が押し入り、致行の妻の家人に追い払われるという事件がありました。
これに対し藤原能信が助っ人を出すと、藤原実資の日記『小右記』では”合戦”と書かれるほどの騒動になっています。
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能信はこの件について「自分は無実である」と訴えたそうですが、父の道長は当然激怒。
その後、能信の下人が一時的に拘禁されています。
その下人は重い罰を受けず、すぐに釈放されたそうで……こうした対応が暴力事件に拍車をかけている気もしてきますね。
・治安二年(1022年)3月
能信の従者と異母弟・藤原教通の従者との間で、かなり大きな争いがあったとされます。
まず3月21日に能信が教通の厩舎人長(馬の世話をする人の長)を拉致監禁した上に、殴る蹴るの暴行を加えました。
これに対し、3月23日、教通の従者が能信の従者の家を破壊したというのです。
なぜ能信が教通の厩舎人長に乱暴を働いたのか?
この辺の詳細は不明ながら、異母兄弟間での確執があったことはなんとなく想像できますね。
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それにしても暴れすぎというか、三十路も見えてくるような歳になって大人気なさ過ぎるというか。
朝廷内では、さぞかし嫌われて爪弾きになっていただろう……と思ってしまいますが、不思議なことに、そうでもなさそうな話が伝わっています。
寛仁元年(1017年)7月のことです。
敦明親王の東宮自体は能信を経由して
寛仁元年(1017年)7月、三条天皇の第一皇子・敦明親王が「東宮の地位を辞退したい」と申し出ました。
その相手が藤原能信であり、能信経由で道長に伝えられています。
敦明親王の東宮辞退は、孫を即位させたい道長が避けて通れない道。
誰から見ても「道長にとって喜ばしいこと」のは明らかであり、むろん能信だけの手柄ではありませんが、父であり最大の権力者を喜ばせる役目を請け負ったのです。
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また、寛仁二年(1018年)には後一条天皇の元服の儀に参加したり、藤原威子が天皇の元へ参上する際のお供に加わったり、普段は真面目に仕事をしていることが記録されています。
どうしても暴力エピソードが目立ってしまう能信には、優れた歌才もありました。
長和四年(1015年)に父・道長の五十歳記念のお祝いや、長元三年(1030年)の章子内親王著袴祝いなどで歌を詠むだけでなく、彼の作品は『後拾遺和歌集』にも入選しているのです。
章子内親王とは、後一条天皇と能信の異母妹・藤原威子の間に生まれた皇女のこと。
その儀式で歌を詠むのですから貴族として名誉なことであり、なんだか不思議でなりません。
能信が普段から乱暴な人だったら、「荒三位(荒々しい従三位)」と呼ばれた藤原道雅や、「さがな者(乱暴者)」と恐れられた藤原隆家のように、何らかの呼び名を付けられていそうなもの。
それが無いというのは、道長の威光が影響していたのか、何なのか。
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そしてその道長が亡くなると、能信は一気に存在感を放ちます。
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