天智八年10月16日(669年11月14日)は藤原鎌足の命日です。
ご存知、中大兄皇子と共に蘇我入鹿を討ち(乙巳の変)、その後の「大化の改新」を推し進めた人物。
最大の氏族である藤原氏の祖でもあり、日本の歴史に最も影響を与え続けた政治家と言っても過言ではないでしょう。
それだけに気になるのが、最期の時です。
小中学校の授業で、あれだけ大きく取り上げられながら、鎌足の死をご存知の方はどれだけいるか。
他の氏族を蹴散らし続けた強権力者なイメージも勝手に湧いてきて、とても畳の上では死ねないタイプのようにも思えてきます。
実際どんな人物だったのか?

『大織冠像』の藤原鎌足/wikimedia commons
本記事で藤原鎌足の生涯を振り返ってみましょう。
祭祀の家に生まれた中臣鎌子
藤原鎌足は推古天皇二十二年(614年)、朝廷の祭祀(さいし)を担う中臣氏に生まれました。
もとの名は中臣鎌子(なかとみ の かまこ)。
「藤原」の姓を授かるのは亡くなる前日のことで、生涯のほとんどを中臣の名で過ごしています。
なんだか音の響きが可愛い名前で、ほとんど中臣だったんですよね!
鎌足は、幼いころから学問を好み、とりわけ中国の兵法書『六韜(りくとう)』を愛読していたそうですから、神主の跡取りというより、軍師の卵のような少年だったのでしょうか。
しかしなぜか、朝廷から家業の祭祀を継ぐよう求められても、それを固辞。
摂津の三島(大阪府高槻市・茨木市辺り)に引きこもってしまいます。
安泰な家業を蹴って一体何をするつもりだったのか。
この三島という土地は、記事の終盤でもう一度登場しますので、頭の片隅に入れておいてください。
中大兄皇子と組んで蘇我入鹿を討つ
藤原鎌足が組む相手に選んだのは、皇極天皇の子・中大兄皇子(なかのおおえのみこ)でした。
蹴鞠(打毬とも)の最中に脱げ飛んだ皇子の沓(くつ)を鎌足が拾って差し出した――『日本書紀』が伝えるこの出会いは有名ですね。
二人が「乙巳の変」を起こしたのは皇極天皇四年(645年)6月12日のことでした。
宮中儀式の場に参じた蘇我入鹿を斬り、新しい政権を立ち上げる。

中大兄皇子と中臣鎌足に討たれる蘇我入鹿/国立国会図書館蔵
鎌足は皇太子となった中大兄皇子の側近「内臣(うちつおみ)」に就き、以後およそ25年にわたって政権の中枢に居続けました。
乙巳の変の詳しい経緯や、入鹿が本当に悪人だったのか?という点については、以下の記事をご覧ください。
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蘇我入鹿は本当に悪人だったのか?「乙巳の変」と「大化の改新」その実像
続きを見る
晩年の仕事は兄弟げんかの仲裁
乙巳の変が強烈なせいか。
いかにも政敵を次々に葬ってきたような印象もある藤原鎌足。
内臣の具体的な仕事は、実は史料にほとんど残っていません。
研究者の朧谷寿(おぼろや ひさし)氏は著書『藤原氏千年』の中で、国博士の旻(みん)らの意見を尊重しながら改新政治を進めたのだろうと記しています。
むしろ目立つのは、身内の火消し役です。
中大兄皇子が即位して天智天皇となったころ、

天智天皇(狩野探幽「百人一首画帖」個人蔵)/wikipediaより引用
弟の大海人皇子(おおあまのみこ・のちの天武天皇)との仲は険しくなっていました。
近江の湖畔の楼閣で開かれた酒宴の席で、大海人皇子が長槍で床板を刺し貫く騒ぎが起き、激怒した天皇が弟を殺そうとしたところを、鎌足が取りなしたといいます。
ただしこの話は、鎌足のひ孫・藤原仲麻呂がまとめた伝記『藤氏家伝(とうしかでん)』に収録されていて、そのまま史実とは断定できません。
立場的に天皇兄弟の喧嘩をなだめられるのは、鎌足ぐらいだった可能性は十分ありそうですが。
では、鎌足は一体どのような最期を迎えたのか。
天智八年に何が起きたのか
『日本書紀』によれば天智八年(669年)5月、天皇が山科野(京都市山科区)で狩りを催し、藤原鎌足も付き従いました。
同年10月10日には天智天皇自らが見舞いに訪れるほど鎌足の病は重くなっており、「望みがあれば何でも言え」と促す天皇に、鎌足はこう答えています。
【意訳】
私は愚か者ですから、今さら何を申し上げることがありましょう。
ただ、葬儀は簡素にしてください。
生きているうちは軍事でも政務でもお役に立てなかったのに、死んでまでどうして重ねてご迷惑をおかけできましょう。
出典:『日本書紀』天智天皇八年十月条
四半世紀も政権の中枢にいた人物が「お役に立てなかった」とは、謙遜にもほどがある。
こんな調子だと、俄然、イメージが変わってきそうです。

藤原鎌足像(菊池容斎画)/wikimedia commons
10月15日、天皇は冠位の最高位である大織冠(たいしょくかん)と大臣の位、そして「藤原」の姓を授けると、翌16日、鎌足は近江の自邸で亡くなりました。
享年は、碑文では56、『日本世記』では50と伝えられています。
自邸が、大和でも摂津でもなく近江だった、というのも意外でしょうか。
当時の都は近江大津宮に置かれていたため、鎌足の自邸が近江にあるほうが自然でしょう。
いずれにせよ鎌足は戦場や政変で斬られたわけじゃない。
天皇に見舞われながら自宅で迎えた最期ですから、少なくとも「自宅で最期を迎えた」という意味では「畳の上で死んだ」と言ってよいのでは?
しかし、話はここで終わりません。
阿武山古墳の遺骨は背骨が折れていた
昭和9年(1934年)、大阪府の高槻市と茨木市にまたがる阿武山(あぶやま)で、工事の最中に古墳が発見されました。
棺の中から出てきたのは、錦の衣をまとった男性の遺体。
阿武山古墳は、鎌足が若いころに暮らしたと伝わる摂津三島の地域にあります。
遺体はほどなく埋め戻され、半世紀後に当時のX線写真が見つかり、昭和62年(1987年)の解析で驚きの事実が明らかになります。
◆阿武山古墳の被葬者
・背骨(第11胸椎)と肋骨が折れていた
・骨には癒着の跡があり、ケガの後もしばらく生きていた
・頭部の周りには、最高位クラスの冠が納められていた
この被葬者こそが藤原鎌足なのでは?
断定できる決め手はまだありませんが、帝塚山大学は2024年、冠が大織冠だった可能性が高く、被葬者が鎌足である可能性もさらに高まったと発表しています。
鎌足の晩年を思い出してください。
5月に狩りへ行き、秋に病、10月に死去――。
背骨を折る大ケガを負い、しばらく生き延びた末に亡くなった遺体と、時期が重なるようにも見えます。
もしかして狩りの最中に落馬でもしたのか……と、そんな想像もしてしまいますが『日本書紀』にケガの記述は一切ありません。
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鎌足が望んだのは簡素な葬儀です。
阿武山古墳の棺には、ガラス玉を銀線で編んだ玉枕が置かれ、冠と錦の衣に包まれた遺体が丁寧に納められていました。
「お役に立てなかった」
そう言い残しながら亡くなった朝廷の功労者を、周囲が手厚く送り出したのかもしれません。
なお、藤原の姓は次男・不比等の子孫に受け継がれ、千年にわたって朝廷を動かす一族へと育っていきます。
「乙巳の変」の詳細については、以下の関連記事を併せてご覧ください。
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蘇我入鹿は本当に悪人だったのか?「乙巳の変」と「大化の改新」その実像
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📚 飛鳥・奈良・平安時代|天皇・政治・文化でたどる日本の古代史ガイド
参考文献
- 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第12巻(ふ―ほ)』(1991年6月 吉川弘文館)
- 朧谷寿『藤原氏千年』(1996年9月 講談社)
- 牟田口章人「出土した冠は『大織冠』の可能性大 藤原鎌足の墓で確定か!?」『歴史人』第169号(2025年1月号、2024年12月 ABCアーク)
- 帝塚山大学「阿武山古墳 冠の完全復元写真を公開」(2024年10月29日)

