足利貞氏/wikipediaより引用

鎌倉・室町時代

足利氏の初代~七代(義康・義兼・義氏・泰氏・頼氏・家時・貞氏)ってどんな人?

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元弘元年=元徳三年(1331年)9月5日は、足利貞氏が亡くなった日です。

名字からイメージが湧くかもしれません。
室町幕府の初代将軍である足利尊氏、そのトーチャンです。

尊氏といえば

・九州へのダイナミック敗走
・心ならずも後醍醐天皇と敵対してしまい、ガチで凹む
・やっぱり不本意ながらも弟と対立して、ガチで凹む

といった不安定エピソードの持ち主。
「よくそれで武家の棟梁になれたな!」とツッコみたくなるような行動が多く伝えられていますよね。

実はこれ、尊氏だけの特徴ではありません。トーチャンもジーちゃんも、その前のご先祖様も、だいたい同じようなでした。

というわけで今回は、足利家の華麗な血脈を振り返ってみましょう。

 

駆け足でポイントを掴もう貞氏以前の足利六代

◆初代 足利義康

源氏の祖とされる源義家の孫。
新田氏の祖である義重と兄弟です。

一番普通の人っぽいというか、一番安定していた人というか。
31歳の若さで亡くなっているため、特筆すべきことがありません。

鳥羽上皇に厚く信頼されていたことが最大の特徴でしょうか。

◆二代 足利義兼

北条政子の妹・時子が正室。
現在の栃木県足利に基盤を築いた英雄……のはずなのですが、42歳で7歳の息子を残して突如出家しています。

どういうことだってばよ!

源氏の宗家と親戚かつ縁戚という濃い繋がりを持っていたため、源頼朝に疑われて粛清されるのを防ごうとした――。
そんな見方もあるようですが、にしてもダイナミックすぎませんか。

◆三代 足利義氏

父の義兼が、かなりガタイのいい人だったせいか。
義氏も特にその辺が似ていて、武勇に優れていたとされています。

性格の方も強いというか頑固というか……60歳のときに81歳の御家人と大ゲンカをしたこともあります。
波に揉まれても丸くならない人っているんですね(´・ω・`)

◆四代 足利泰氏

35歳のとき、突如出家し、トーチャンを困らせています。

御家人が出家するには鎌倉幕府の許可が必要だったので、当然、大騒ぎになりました。

領地を一部没収。
泰氏をそのまま当主にすることはできないので、まだ11歳の息子・足利頼氏に家督が引き継がれるんですが……。

◆五代 足利頼氏

突然出家したトーチャンの跡を継ぎ当主になったものの、生まれつき体が弱く、23歳前後で亡くなってしまったとされています。

源氏の名門であるはずの足利家で、当主の没年がわからないというのがもう……。

◆六代 足利家時(尊氏のジーちゃん)

足利家のご先祖が予言した
「我が七代目の子孫が天下を取る」
という当事者にあたります。

当時は鎌倉幕府(というか北条家)の全盛期だったので、どうひっくり返してもそれは望めませんでした。

そこで家時は「私の命を縮める代わりに、三代のうちに天下を取らせてください」と願掛けをして切腹した、とされています。

もうワケわかめ。なぜ「子や孫のために下準備をしておいてやろう」と思わなかったのか。
話自体が、尊氏の幕府創設を正当化するために後世作られたとも考えられますね。

 

七代 足利貞氏

とまあ、足利氏はこんな感じで「いきなり何かをやらかす一族」ということになっています。

個々の事情や時代背景を見ていくと、一応説明がつくものもあるのですが……詳しいお話はそれぞれを扱うときにでも。

しかし、七代目足利貞氏の場合は、もっとひどい書かれ方をしています。

「貞氏に最近奇妙な振る舞いが多いので、何かが取り憑いて狂ってしまっているのだと考えられ、祈祷をお願いしました。するといくらか症状がおさまりました」(意訳)
なんてことが当時の史料に記されているのです。

「藩主が発狂したので改易されました」
という話は江戸時代にちょくちょく出てきますが、この時代ではかなり珍しいこと。

しかも、家督を継いでしばらくの間は普通に仕事をしていたのですから、いきなりおかしな言動が増えれば、そりゃあ妖怪変化のしわざかと思われますよね。

ここで頭に入れておきたいのは、貞氏の生きていた時代は、足利家の舵取りが非常に難しい状況だったということ。

足利家は源氏の名門、かつほとんどの当主が北条家から正室を迎えています。
それによって領地や身分を得ていたわけですが、家格が高くなれば、何かと物入りになるものです。平たくいえばお金が要ります。

この時代、武士が収入を増やす手立てなど、そうはありません。

鎌倉でお金を使えば、地元・足利の整備にはお金をかけられなくなってしまいます。
足利には先祖代々の菩提寺があるにもかかわらず、です。

しかも当時は元寇に対する恩賞の件で、御家人たちがざわめいていた頃。
少しでも蓄財に励む素振りを見せれば、他の御家人からは「何でアイツだけ余裕があるんだよ!」とやっかまれますし、北条家からは「おやおやおや、幕府が困ってるっていうのに足利クンは自分だけお金儲けをして、一体何を考えているのかな?^^」と怪しまれるのは目に見えています。

その上、貞氏は嫡子・足利高義の早世により、後継者問題で頭を悩ませていました。

後世からすると「尊氏も直義もいるじゃん?」と言いたくなってしまいますが、高義は正室の北条氏、尊氏・直義は側室の上杉氏を母としていたことがネックになったのです。

母親が正室かどうか。
家格を保つため、他の家からナメられないため、この要素は当時重要な事でしたので。

 

貞氏は鎌倉幕府滅亡のわずか2年前に死す

そんなわけで、貞氏の「発狂」はストレスが溜まりすぎた末の
【精神病・心身症の何か】
というのが正しいのではないでしょうか。

「尊氏のアップダウンの激しさをフォローするために、”ご先祖様からの伝統だから仕方ないよね! 尊氏悪くない!”という方向性の記録を後から作った」

そんな説もありますが、どちらもありえそうなところがなんとも。

「父親が発狂したことがある」ということにしておけば、尊氏のメンタルが吹けば飛びそうなレベルのかよわさであったとしても、何となく納得できてしまいますものね。

上記の通り、貞氏が亡くなったのは鎌倉幕府滅亡のたった二年前でした。
鎌倉幕府が尊氏に対して「お前のトーチャン死んだらしいけど、生前からいろいろ怪しかったから葬儀はナシな」(超訳)という態度を取ったことも、尊氏が倒幕側になった一因と言われていますね。

もし貞氏の心身がもう少し良い状態でもっていたら?
尊氏が倒幕軍に加わることはなく、その後征夷大将軍になることもなかったのかもしれません。

まさに「事実は小説より奇なり」といいましょうか。
どんなところで歴史が動くかわからないものです。

長月 七紀・記

【参考】
『足利尊氏と関東 (人をあるく)』(→amazon
足利貞氏/wikipedia

 



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