法然/wikipediaより引用

鎌倉・室町

法然と浄土宗が一気に信者を獲得できたのはなぜ? 南無阿弥陀仏と唱えれば

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「専修念仏を禁止してください!」

法然の活躍は、一大ニュースとなって京の町を駆け巡りました。

詳しい経緯は不明ながら、ときの太政大臣・九条兼実の知遇を得たり、多くの人々が法然に弟子入りしたりするほど。

中には、後に浄土真宗を開く親鸞や、平家物語「敦盛の最期」で敦盛を討ったことで有名な、熊谷直実などもいました。

親鸞/wikipediaより引用

この時点で、法然の「身分の上下に関係なく人を救いたい」という考えが達成されつつありますね。

むろん法然も人ですから、「このままこの考えを広め続けてもいいのだろうか」と迷うこともあったようで。

1198~1206年の間に幾度も霊的体験をして、自分の方針が間違っていないことを確信、迷いを捨てて衆生のために尽くそうと決めます。

しかし、法然の教えは既存の宗派にとっては好ましくないものでした。

「専修念仏」が世に広まってから、法然の古巣である延暦寺や、奈良の興福寺の僧侶たちが

「念仏を唱えるだけで救われるなんてありえない! 専修念仏を禁止してください!」

と朝廷に訴えるようになってしまったのです。

 

1206年にとんでもない事件が起きてしまう

もはや単なる利権では?

そう思ってしまいますが、延暦寺や興福寺からすれば、必死だったことでしょう。

もし、専修念仏で全ての衆生が救われてしまったら、これまで厳しい修行や伝統を守ってきた古いお寺の存在意義がなくなってしまいます。

危機感を覚えるのも無理はないことですね。

とはいえ、まぁ、イチャモンのようにしか見えませんが……。

元々誰かと対立することを好まない法然は、真っ向からぶつかったりはしませんでした。

ところが、です。
1206年にとんでもない事件が起きます。

この頃、法然の弟子も各地で説法をするようになっていたのですが、そのうちの安楽房遵西(あんらくぼうじゅんさい)という僧侶の法会に、宮中に仕える女官が参加し、そのまま出家してしまったのです。

愚管抄』では、女官が遵西を宮中に引き入れた……ということになっていますが、それはさすがにちょっと(´・ω・`)

きちんと許可を得ていたならともかく、これが当時の治天の君(実際に政治を行う天皇や上皇・法皇)である後鳥羽上皇が熊野詣でのため留守だった&女官の衝動的な行動だったため、当然、上皇は大激怒!

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法然に厳しい処分が下されることになるのです。

 

法然も親鸞も流罪 僧籍も剥奪された

これまで、延暦寺や興福寺の度重なる訴えについて、朝廷は

「そうはいっても、法然の教え自体は問題というわけでもないし、既に朝廷の中にも信者がいるし、素行の悪い者もごく一部だから、そういうのだけ処罰すれば問題なくね?」

という態度を取っていました。

そして延暦寺・興福寺も、それで納得するほうに傾いておりました。

しかし、女官の一件ですべてが変わります。

上皇の主導で、遵西と数名の僧侶は死罪、法然は四国へ流罪、親鸞は越後へ流罪という非常に厳しい処分が下されたのです。

しかも法然と親鸞については僧籍を剥奪され、俗人としての名前を押し付けられています。

幸いというべきか、法然自身の関与が薄かったため、一年程度で流罪は解けました。それでも京都市中に入ることは許されず、しばらくの間は大阪の勝尾寺(大阪府箕面市)に滞在していたようです。

建暦元年(1211年)、京都に入る許可が出た頃、法然、既に78才。

老齢の身で入京するも、間もなく病床に伏してしまい、翌年に亡くなりました。

この、法然が最晩年を過ごした地が京都の有名なお寺の一つ、知恩院の勢至堂です。

知恩院勢至堂/photo by 663highland wikipediaより引用

おそらくや修学旅行で京都を訪れた方の多くが、「どこのお寺も同じように見えて、記憶に残っていない」のではないかと思います。私もそうでした。

しかし、こういった受験や校内試験でのポイントになる部分と絡めていけば、感慨深くなって思い出に残りやすいのではないでしょうか。

ほんと机にかじりつくだけが勉強じゃありませんね。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
法然/wikipedia
嘉禄の法難/wikipedia

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