こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【小手指原の戦い】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
所沢市から東京台東区当たりまで大逃走
新田義宗はその中で、尊氏方の中に向こう見ずな戦い方をする若い一隊がおり、そのせいで他の軍に支障をきたしていることに気付きました。
義宗だけでなく、新田一族にとって尊氏は義貞の仇。
一気に士気を高めた新田軍は、足利家の家紋である【二つ引】の旗、つまり尊氏の陣に猛攻をかけました。
あまりの攻勢に尊氏は撤退し、現在の東京都台東区付近まで逃げたといわれています。
同じく現在の道路では車で1時間・徒歩で7時間くらいの距離のようですので、騎馬の軍であればその間くらいですかね。
尊氏が単身かつ馬に乗って逃げたのであれば、車と同じくらいだったかもしれませんが、それもなさそうですし。
ここで尊氏はまた例の鬱気質が出たらしく、自決しかけて止められているので、もし一人で逃げてきていたら、そこで室町幕府が終わってしまったかもしれません。
足利尊氏はどんな経緯で征夷大将軍となった?ドタバタの連続だった54年の生涯
続きを見る
まぁ、仮に一人で逃げていた場合は部下に「(゚Д゚)ハァ?」と思われていたところですが、日頃の人望があってよかったよかった。
そして……。
ヤケクソになって鎌倉へ これが功を奏し……
義宗は尊氏へ追撃をかけるも、日が暮れてきたため断念。
はぐれた一族と合流すべく、笛吹峠(現・埼玉県比企郡)に布陣して待つことにしました。
この後、起きたのが笛吹峠の戦いです。
笛吹峠の戦いで新田と上杉を撃破 ノリノリの尊氏 関東王に俺はなる
続きを見る
一方、兄の義興は300ほどの小勢になっていたものの、尊氏方の仁木頼章・義長と戦闘を繰り広げていました。ニーチャン無謀すぎ。
しかも「このまま帰るのも難しそうだし、いっそ鎌倉を攻めてやれ!」と半ばヤケクソになって鎌倉へ向かっています。
これが功を奏しました。
他の新田方の軍と合流し、まとまった数になったことで、鎌倉を攻め取ることができたのです。義貞が草葉の陰で感涙してそうですね。
ちなみに、このとき鎌倉公方(室町幕府の鎌倉出張所みたいなものの長官)は尊氏の四男・足利基氏でした。新田方にとっては、二重にも三重にも爽快な出来事だったでしょう。
当コーナーでは新田家をひいきしておりますので、新田方がこのまま勝ち続けた歴史も見てみたかったな、と思います。
あわせて読みたい関連記事
足利尊氏はどんな経緯で征夷大将軍となった?ドタバタの連続だった54年の生涯
続きを見る
高師直は幕府設立の立役者だが!最期は首を取られ胴体を川に捨てられ
続きを見る
尊氏vs直義 史上最大の兄弟ゲンカ「観応の擾乱」の結末は毒殺か
続きを見る
新田義貞が鎌倉幕府を倒しながら 後醍醐天皇に翻弄され 悲運の最期を迎えるまで
続きを見る
笛吹峠の戦いで新田と上杉を撃破 ノリノリの尊氏 関東王に俺はなる
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
武蔵野合戦/wikipedia
観応の擾乱/wikipedia