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【足利氏の初代~七代】
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七代 足利貞氏
とまあ、足利氏はこんな感じで「いきなり何かをやらかす一族」ということになっています。
個々の事情や時代背景を見ていくと、一応説明がつくものもあるのですが……詳しいお話はそれぞれを扱うときにでも。
しかし、七代目足利貞氏の場合は、もっとひどい書かれ方をしています。
「貞氏に最近奇妙な振る舞いが多いので、何かが取り憑いて狂ってしまっているのだと考えられ、祈祷をお願いしました。するといくらか症状がおさまりました」(意訳)
なんてことが当時の史料に記されているのです。
「藩主が発狂したので改易されました」という話は江戸時代にちょくちょく出てきますが、この時代ではかなり珍しいこと。
しかも、家督を継いでしばらくの間は普通に仕事をしていたのですから、いきなりおかしな言動が増えれば、そりゃあ妖怪変化のしわざかと思われますよね。
ここで頭に入れておきたいのは、貞氏の生きていた時代は、足利家の舵取りが非常に難しい状況だったということ。
足利家は源氏の名門、かつほとんどの当主が北条家から正室を迎えています。
それによって領地や身分を得ていたわけですが、家格が高くなれば、何かと物入りになるものです。平たくいえばお金が要ります。
この時代、武士が収入を増やす手立てなど、そうはありません。
鎌倉でお金を使えば、地元・足利の整備にはお金をかけられなくなってしまいます。
足利には先祖代々の菩提寺があるにもかかわらず、です。
しかも当時は元寇に対する恩賞の件で、御家人たちがざわめいていた頃。
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少しでも蓄財に励む素振りを見せれば、他の御家人からは「何でアイツだけ余裕があるんだよ!」とやっかまれますし、北条家からは「おやおや、幕府が困ってるっていうのに足利クンは自分だけお金儲けをして、一体何を考えているのかな?^^」と怪しまれるのは目に見えています。
その上、貞氏は嫡子・足利高義の早世により、後継者問題で頭を悩ませていました。
後世からすると「尊氏も直義もいるじゃん?」と言いたくなってしまいますが、高義は正室の北条氏、尊氏・直義は側室の上杉氏を母としていたことがネックになったのです。
母親が正室かどうか。
家格を保つため、他の家からナメられないため、この要素は当時重要な事でした。
貞氏は鎌倉幕府滅亡のわずか2年前に死す
そんなわけで、貞氏の「発狂」はストレスが溜まりすぎた末の
【精神病・心身症の何か】
というのが正しいのではないでしょうか。
「尊氏のアップダウンの激しさをフォローするために、”ご先祖様からの伝統だから仕方ないよね! 尊氏悪くない!”という方向性の記録を後から作った」
そんな説もありますが、どちらもありえそうなところがなんとも。
「父親が発狂したことがある」ということにしておけば、尊氏のメンタルが吹けば飛びそうなレベルのかよわさであったとしても、何となく納得できてしまいますしね。
上記の通り、貞氏が亡くなったのは鎌倉幕府滅亡のわずか2年前でした。
鎌倉幕府が尊氏に対して「お前のトーチャン死んだらしいけど、生前からいろいろ怪しかったから葬儀はナシな」(超訳)という態度を取ったことも、尊氏が倒幕側になった一因と言われていますね。
もし貞氏の心身がもう少し良い状態でもっていたら?
尊氏が倒幕軍に加わることはなく、その後、征夷大将軍になることもなかったのかもしれません。
まさに「事実は小説より奇なり」といいましょうか。
どんなところで歴史が動くかわからないものです。
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長月 七紀・記
【参考】
清水克行『足利尊氏と関東 (人をあるく)』(→amazon)
足利貞氏/wikipedia