梶原景時

歌川芳虎「源義経逆櫓之図」に描かれた梶原景時/国立国会図書館蔵

源平・鎌倉・室町

なぜ梶原景時は御家人仲間に嫌われた?頭脳派武士が迎えた悲痛な最期

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侍所別当に就任

頼朝と共に上洛した梶原景時

40日ほどの滞在期間中、頼朝は実に8度も後白河上皇に謁見し、綿密に話し合いを重ねました。

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頼朝が後白河法皇と話し合いを進めている間に、景時も公家とのパイプを築いたと思われます。

翌建久二年(1191年)に徳大寺実定が亡くなった際、梶原家とも縁がある人物だと書かれているからです。

徳大寺実定は百人一首で「後徳大寺左大臣」と書かれている人物で、和歌の他にも管弦や著述を得意とする文化人でした。

平家時代には不遇ながら、頼朝の推挙によって政界に復帰したため、御家人たちとの接点もあったものと思われます。

元から読み書きや和歌の素養があった景時であれば、公私問わず親交を深めるのも納得できますね。

さらに景時は、京都滞在中に頼朝が右近衛大将へ任官されたお礼のため、後白河上皇へ拝賀する際、供奉(ぐぶ・お供をすること)を務めました。

その後、後白河上皇の意向により、御家人10名に官職を賜ることになった際、候補者として景時の名が上がっています。

しかしこのとき、景時を含めた4名は息子や孫に官職を譲りました。

そのまま受けた人もいるので、これは判断に困るところですが、公家とのやりとりもできて、他の坂東武者より、はるかに洗練されていることはご理解いただけるでしょう。

次に大きな話題となるのは、建久三年(1192年)の侍所別当の就任です。

侍所(さむらいどころ)とは鎌倉幕府における軍事警察機関で、別当(べっとう)とは長官を意味します。要は責任者ですね。

直前まで同職を務めていたのは和田義盛

ドラマでも横田栄司さん演じる義盛が、石橋山の戦いで負けた直後なのに「侍大将になりたい!」とか言って話題になっていましたね。

吾妻鏡には「景時が一日だけ別当になりたいといい、義盛がそれを了承した。その後、景時は職を返さず、別当の地位に収まった」と記されていますが、さすがにこれはないでしょう。

頼朝がこのような適当な人事をするわけがありません。

おそらくは景時の事務能力を買い、武人肌の義盛から交代させたのではないかと思われます。

兎にも角にも、家臣としては最高位の一つを手に入れたわけで、数年間は続きました。

しかし、あるときをもってその安寧は崩壊します。

 

頼朝の死からの失脚

あるときとは他でもありません。

正治元年(1199年)1月13日に源頼朝が亡くなったのです(享年53)。

家督と将軍職は嫡子の源頼家に引き継がれ、同年4月には『鎌倉殿の13人』の元にもなる十三人の合議制が決定。

梶原景時もその一員に選ばれました。

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事務能力の高い人物にとっては、本領発揮の場面とも言えるでしょう。

しかしそれは永久に失われてしまいます。

同じく正治元年の10月、合議制ができてからわずか半年後、景時は追放されてしまったのです。

きっかけは、結城朝光(ゆうきともみつ)という御家人だとされています。

朝光が

「先代様がお亡くなりになったときに出家すべきだった。今は薄氷を踏む思いだ」

とボヤいたのに対し、景時が

「こいつは頼家様に不満を抱いている。いずれ謀反を起こすつもりでは?」

と勘違いし、讒言したというのです。

しかし、それを聞いた他の御家人たちが、

「朝光はそんな事を考えていない、景時こそ排除すべきだ!」

と団結。実に66人もの名前を連ねた弾劾状を作成するのでした。

弾劾状は、同じく十三人の一人・大江広元の下へ提出され、しばらくは留め置かれていましたが……。

和田義盛が「貴公は景時ごときを恐れているのか!」と詰め寄ったため、広元は渋々頼家に提出したとされています。

広元としては、早急に事を進めて景時を弾劾するよりも、御家人たちの気分が静まるのを待ちたかったのかもしれません。

 

弾劾状

なお、この話には、いくつか別の説も存在します。

一つは北条時政の娘・阿波局が絡んだもの。

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朝光の愚痴を聞いたのは阿波局であり、

(朝光に対して)「あなたの発言を景時殿が頼家様に伝えていた」

と告げ口したというのです。そのため景時を逆に追い詰めようとして、弾劾状が作られた……という流れですね。

もう一つは、頼家の排斥と実朝の擁立を画策している者がいると頼家に報告したら、逆に景時が弾劾されたという説。

未だ確たる結末には至っておりません。

侍所別当という重要人物の失脚にしては、経緯が入り乱れるのは少々不可解ですが……いかんせん、この時代の武士は「記録をつける」習慣が根付いていないので、致し方ないでしょう。

結局、景時は、鎌倉を追われ、所領である相模一ノ宮に退きました。

頼家が弾劾状の件を景時に直接下問したところ「何も言わずに引き下がった」ともいわれています。

ではなぜ景時は失脚させられたのか?

あくまで個人的な想像ながら、北条氏が他の御家人たちの力を削ぐため、合議制の参加者で、最も他者との軋轢の多かった景時を槍玉に挙げたのではないでしょうか。

景時も、もはや鎌倉にはいられないと判断したのでしょう。

正治二年(1200年)正月に一族の者たちを率いて、相模から西へ向かって出立しました。

行き先は京都だったと考えられています。

しかし、駿河の清見関(きよみがせき)で、偶然居合わせた吉川友兼ら在地の武士たちと戦闘。

景時と息子たちを始めとした一族は善戦しましたが、最終的に一族33人が全員討死あるいは自害となってしまいました。

吾妻鏡では

「景時は上洛して倒幕の兵を募ろうとしており、武田有義を担ごうとしていた」

とされていますが、なにせ景時側の記録がないので判断ができません。

また、梶原家は徳大寺家をはじめとして公家とのパイプがあったため、その縁を頼ってどこかの公家に仕えようとしていたのではないか……という説も。

公家側の記録でも、この件については見解が一致していません。

九条兼実の記した『玉葉』では、

「景時は密かに鎌倉幕府打倒の陰謀を企てており、それが露見したので討たれたのだという。自業自得だ」

とされている一方で、兼実の弟である慈円の『愚管抄』では

「景時は鎌倉本体の武士であるのに、それを死なせてしまったことは源頼家の落ち度である」

と書かれています。

聖俗の差こそあれ、上方でもこの件についての印象は分かれていたのでしょう。

現場が駿河であり、鎌倉とも京都とも離れていることから、伝聞を重ねるうちに情報が変化したことも考えられます。

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まとめ

景時は当時の武士としては異端なほど、記録や報告を事細かに行う人でした。

それが他の武士からは

「あいつは自分の出世のために、他の武士の悪口を報告に入れて蹴落とそうとしている」

と受け取られてしまった可能性は否めません。

景時が討たれた後も御家人の排斥事件は続き、多くの場合、最後の最後まで武力で抵抗しますが、景時の行動は異心がなかったことの証ではないでしょうか。

また、金刺盛澄と言って景時に救われた武士もいて、誰からも嫌われるようなタイプではなかったはずです。

盛澄は建仁三年(1203年)までの活動が記録されているため、景時が追放されたときは健在です。

もしも景時が謀反を起こすつもりなら、そういった人々も頼ったのではないでしょうか。

金刺だけでなく、城長茂という武士も救われた恩を忘れていません。

なんとこの城長茂、景時が討死した一年後に上洛し、弾劾状に名を連ねた御家人を襲撃、そのまま幕府打倒の兵を挙げたのです。

【建仁の乱】と呼ばれている同事件。

さすがに失敗に終わりますが、彼の姉妹である板額御前の奮戦も有名ですね。

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金刺盛澄は軍事行動こそ起こさなかったものの、地元に「梶原塚」という塚を建てて菩提を弔っています。

数回移転しながら、現代でも諏訪郡下諏訪町木の下に存在しているとのこと。

盛澄やその子孫、地元の人々が景時の良い面を語り伝えてきたのでしょう。

また、現代では、景時の家臣や、梶原家の菩提寺である興禅寺などによって「かじわら会(→link)」という研究会が作られています。

新型コロナの影響で、集会の機会は縮小しているようですが、例年は供養や懇親会なども積極的に行っていたとのことです。

景時ファンの方は問い合わせてみるのもいいかもしれませんね。

義経の生涯があまりに伝説的であるため、義経と敵対した景時には常に悪評がつきまといます。

惜しむらくは、景時当人に吏僚としての才がありながらも、自らの言動を記録しなかったことでしょう。

それさえあったら、まったく別の評価になっていたかもしれません。

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長月 七紀・記

【参考】
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon
細川重男『北条氏と鎌倉幕府』(→amazon
関幸彦/野口実『吾妻鏡必携』(→amazon
日本史史料研究会/細川重男『鎌倉将軍・執権・連署列伝』(→amazon
日本史史料研究会『将軍・執権・連署: 鎌倉幕府権力を考える』(→amazon
笹間良彦『鎌倉合戦物語』(→amazon
国史大辞典
ほか

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