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【北条政子】
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頼家の暴走と数多のトラブル
50歳を過ぎ、事故から亡くなった父・頼朝はともかく、まだ若い姉と妹も病で亡くなった。
そんな不幸の連続から、息子・源頼家の即物的で刹那的な価値観は強まったのかもしれません。
頼家は、宿老たちや母の実家である北条氏の干渉が疎ましくなり、自分の妻の一族である比企氏や昔なじみの若侍を徴用したがりだしました。
そして十三人の合議制を無視しようと、自分の気に入っている若い5人の侍だけをそばに置き、以下のようなムチャな命令を出します。
「この5人とその関係者が何をしても、他の者は敵対してはいけない」
「彼ら以外は特別なことがない限り、将軍に会ってはならない」
これだけでも将軍としての器が疑われるところですが、さらに女性問題まで勃発。
安達景盛の妾に目をつけると、景盛を三河へ向かわせた間にその妾を奪い、例の5人の侍以外は来るな!という、これまた非常識な命令を出したのです。
他にも鶴岡八幡宮の祭りをサボるやら、帰ってきた景盛を討って妾を完全に自分のものにしようとするやら、暴君といわれても仕方のない言動が続きました。
当然、北条政子は頼家を訓戒します。
「父や妹が亡くなったばかりなのに、わざわざ争いの種を作るとはどういうことですか!
それに、景盛は昔から働いてきた功臣ですよ。何か罪があるというのなら私が取り調べます」
こういわれると、さすがの頼家も少しは大人しくなります。
しかし、上がこんな状況では、御家人たちがまとまるはずもありません。
まず、梶原景時への不満が爆発。
景時は、職務に忠実すぎて頼朝の生前から「頼朝公の寵愛を笠に着て、自分が気に入らない奴を追い落としている」といわれていました。
頼家に代替わりしてもその傾向が変わらなかったものか、なんと66人もの御家人が景時を弾劾する連署状を書いたのです。
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最初にこれを提出された大江広元は、10日以上手元にとどめて握りつぶそうとしましたが、署名したうちの一人である和田義盛にせっつかれ、やむなく頼家に提出。
そして頼家が景時を呼び、言い分を聞こうとすると、景時は何もいわずに一族を連れて領地に帰ってしまいました。
関東ではもう生きていけないと感じたのか、その後、京都へ向かうのですが、道中、駿河で何者かに襲われ、一族もろとも命を落としたといわれています。
この件に関して政子は、全く意思表示をしていません。彼女の性格からして、なにかあれば即座に言い放っていたでしょうから、おそらく景時の排斥については異論がなかったのでしょう。
あるいは、景時をスケープゴートにして御家人の団結を図ったのかもしれません。
しかし頼家自身の問題は、まだまだ終わりません。
後鳥羽上皇に頼み、鞠の名手である行景という者を派遣してもらって以降、蹴鞠にドハマリしてしまっていたのです。
毎日のように蹴鞠の会を開催。
全国では、地震や台風による被害が相次ぎ、飢饉で一般民衆が苦しんでいたにもかかわらずこんな調子で、さすがに義時の息子・北条泰時が黙っていられなくなりました。
飢饉に際して泰時は、地元へ走り、米を配ったり負債を帳消しにするなど、領民救済のために奔走していたのです。
頼家に怒りを覚えても自然なことでしょう。
「蹴鞠をご愛好なさることは結構なことですが、今は台風の被害で皆が飢饉に悩んでいるのです。各地の様子を調べて手を打つのがあなたの仕事ではありませんか」
というように諫言したところ、何ら効果なし。
建仁2年(1202年)の正月、一族の長老・新田義重が亡くなったにもかかわらず、頼家はその喪も明けない十数日後に蹴鞠へ出かけようとする始末でした。
政子もたまりかね、ついには注意します。
「源氏の宿老であった義重が亡くなったばかりなのに、遊びに出かけるとは何事ですか!」
「蹴鞠と物忌みとは関係ありません」
さすがにこのときは止めていますが、蹴鞠への熱狂は終わらなかったらしく、所々で鞠の件が出てきます。
蹴鞠に出かけた先で女性の訴えを聞いてやったことなどもあるので、頼家が全く仕事をしていなかったわけではないのですけれども……悪い件のほうが多すぎました。
政子も息子の趣味を理解しようと、名人の蹴鞠を見に行ったこともあったんですよね。
比企能員の変
建仁2年(1202年)7月、源頼家は二代目となる征夷大将軍に就任。
こうした性格と病弱さでは、とても長く職務を全うできる器ではありません。
天罰とも取れる出来事が翌建仁3年に起こります。同年6月、頼家が伊豆から駿河にかけて狩りに出かけたときのことです。
伊豆と富士でそれぞれ一ヶ所ずつ深い穴を見つけ、家臣に調べさせました。
伊豆の穴に入った家臣は言いました。
「数十里も続くような真っ暗な穴で、奥に大蛇がいたので斬り殺して帰ってきました」
一方、富士の穴では次の通り。
「狭くて後戻りもできないような穴で、コウモリがたくさん飛んでいて顔に当たりました。
その先に川があって渡れず、困っていたところ怪しい火が輝き、家来が四人死にました。
私は頼家様からいただいた刀を川に投げ入れ、なんとか帰ってくることができました」
いずれもにわかには信じがたい話ですが、当時の価値観では人知の及ばぬ神域を侵した……とされても不思議ではありません。
それから一ヶ月ほどして、神の使いとされていた鶴岡八幡宮の鳩がやたらと変死するという怪異が起き、ついには頼家が発病。
祈祷や治療の効きめがなく、穴にいた神霊の祟りだと恐れられたようです。
日頃から評判が良くない頼家が発病し、しかも何ヶ月も治らない……となると、次に問題になってくるのは相続ですね。
長男の一幡はまだ6歳という幼さで、急いで話をまとめなければなりませんでした。
頼家の弟で北条政子の次男・源実朝も、一幡よりは年長ながら、当時はまだ12歳で元服前の少年。
そこで実朝に関西三十八ヵ国の地頭職、一幡に関東二十八ヵ国の地頭職と惣守護職が譲られることになりました。
これに異を唱えたのが、一幡の外祖父にあたる比企能員です。
地方の御家人武士も将軍の病を聞きつけ、さらに相続も揉めていると聞いて騒ぎ出しました。
比企能員は、娘(頼家の妻)の若狭の局を通じ、頼家に訴えかけます。
「子供と弟で相続を分けるというのは争いのもとになります。きっと北条一族が一幡から家督を奪おうとしているのです。討たなければいけませんよ」
病床の頼家はこれを信じてしまい、北条討伐の計画に着手。
これを政子が障子越しに聞き、急いで父・時政のもとへ知らせました。
さすがの時政も驚き、まず大江広元の邸に行って相談。
「能員が将軍を騙して我らを討とうとしているらしい。先手を打って奴らを討つべきだと思うがどうだろうか」
広元の了解を得て、天野遠景らに命じて能員を討つことにしました。
遠景は「おおっぴらに兵を動かすよりも、適当な理由で邸に呼んで殺してしまったほうがいい」と考え「時政殿の邸で仏像供養をするので、来てもらえないだろうか」と能員を呼び出しました。
能員はまだ計画がバレたとは思っていませんでしたから、下手に疑われまいとして、丸腰同然でやってきたそうです。
そしてあえなく殺され、驚いた従者が比企家の面々にこれを知らせると、一族は一幡を抱えて立てこもりました。
外から見れば、
”比企一族が将軍の病気をいいことに、若君を人質にとって反逆した”
ということになります。
北条氏は他の御家人たちを動員し、比企一族を一幡ごと滅ぼしました。
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大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では佐藤二朗さんが演じる比企能員。トボけた雰囲気ながら、壮絶な最期を迎えるんですね。
頼家は不審死 三代将軍は実朝に
一方、比企氏の一件を知った源頼家は驚き怒り、時政を討とうと和田義盛・仁田忠常に命じます。
しかし、です。肝心の義盛が時政に知らせたため、失敗に終わります。
ついでに頼家がえこひいきしていた5人の若侍も遠ざけられ、完全に孤立。
北条政子からすれば、それでも息子には違いありません。せめて一命を助けようと、息子に出家を勧めました。
頼家も事ここに至ってやっと状況を理解し、頭を丸めて修善寺へ向かいます。この間、京都には、既に頼家が亡くなったと伝わり、源実朝に将軍宣下がなされていました。
頼家は翌年、修善寺で亡くなっています。
死因は定かではありませんが、当時から暗殺の疑惑が絶えず、おそらくは政子の知らないところで北条氏が手を回したものと思われます。
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こうして数年のうちに、鎌倉幕府は三代目の将軍・源実朝になりました。
実朝は、元服式を執り行い、形の上だけでは政治にも関わるように。
実際の政治は、祖父である北条時政と、幕府創設以来の老臣・大江広元が行いました。
生来勉強好きな質だった実朝は、頼家より将軍に向いていたと思われ、歌道を好んだこともあってか、古代の政治をよく学んでいました。
おそらくは時政や広元の仕事ぶりを見ながら、リアルタイムでも習得していたでしょう。
ここで、実朝の政治に関する逸話を一つご紹介させていただきます。
あるとき相模川の橋が一部破損してしまったため、三浦義村が修理を上申しました。
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これに対し、北条義時・大江広元・三善康信などが以下の理由から訴えを退けようとします。
「この橋は、かつて稲毛重成がその亡妻の供養のために作ったもの。
その落成式に出席された頼朝公が帰路に落馬して亡くなる原因になったのだから、不吉だ。
修理する必要はない」
父親のことですから、実朝も経緯をまったく知らなかったということはないでしょう。
三人の議決に対し、こう答えます。
「そうはいっても、父上は武家の棟梁として位を極めていたし、亡くなったのは事故の結果なのだから、橋とは関係ない。
この橋は伊豆山・箱根に参詣する道の途上にあり、壊れたままでは民衆の往来にも不便だ。
全壊しないうちに修理せよ」
こうして真っ向から反対し、修理を急がせたのです。
実朝21歳のときのこと。迷信や祟りなどが信じられていた時代には似つかわしくないほど、現実的な見方をしていますね。
兄の頼家が同じ歳のころ、母の北条政子に叱られてばかりだったことを考えれば、実朝の将来は明るく見えたのではないでしょうか。
実朝は文学を好むせいか、妻に関しても武家ではなく、公家から迎えたいと自ら希望しています。
そして前大納言の坊門信清の娘・信子と結婚しました。
夫婦仲は良かったようですが、残念ながら子供には恵まれていません。
また、実朝夫人は政子とも良好な関係であり、たびたび一緒に寺社詣でをしたり、流鏑馬や舞の見物にも出かけています。
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