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【北条政子】
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しかし、それが頼朝の怒りを買い、今度は奥州藤原氏が討たれることになりました。
頼朝本人の出征は九年ぶりのことです。
相手は奥州を代表する大勢力。さすがの北条政子も心配になったようで、近辺の女房達とともに鶴岡八幡宮へお百度参りをして無事を祈ったといいます。
この戦には政子の弟・北条義時も参加していたので、心配も一層のことだったのかもしれません。
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霊験あってか、戦は無事に鎌倉方の勝利。
神仏の加護が実在するかどうかはわかりませんが、少なくとも政子はそう感じたのではないでしょうか。頼朝凱旋の後に鶴岡八幡宮へお礼参りをし、神楽を奉納しています。
さらに時代は動きます。
建久三年(1192年)3月、頼朝や源氏とは複雑な関係だった後白河法皇が崩御。
代わって治天の君(実際に政治を行う天皇や上皇・法皇)となった後鳥羽天皇によって、同年7月に頼朝が征夷大将軍に任じられました。
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また、同年8月に政子は次男・実朝を出産。
今回もやはり頼朝は大進の局という愛人のもとに通っており、間に庶子をもうけていました。ある意味マメというかなんというか……。
政子からすればやはり耐え難いことで、この息子は後に京都に送られ、仁和寺で出家して貞暁と名乗ることになります。
同時期に別の不幸もありました。
範頼と大姫の不幸
不幸の一つ目は、頼朝の弟・源範頼です。
発端は、頼朝が頼家を連れて富士野の巻狩に出かけたこと。
頼家が鹿を射取ったというので頼朝は喜び、北条政子に知らせたのですが、彼女は使者を叱りつけます。
「武将の息子が狩りで獲物を得るくらいのことは当然、わざわざ知らせるほどのことではありません」
この話は頼朝の子煩悩ぶりや、北条政子の気の強さが出ているなど、さまざまに評価されている有名な話ですね。
問題は、この外出の間のこと。
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言ってみればテロ行為ですから情報が錯綜し、鎌倉には「頼朝が討たれた」という噂も流れてしまいます。
当然、政子も穏やかではおられず、これに対し、留守番役をしていた範頼が政子を慰めようと、
「私がこの通りついていますので、後のことは心配いりません」
と言ったのがまずいことになりました。
範頼の性格からして、裏のある言ではなかったと思われますが……このことを後に政子から聞いた頼朝は、
「あいつ、この隙に将軍の地位を横取りするつもりなのか?」
と疑ってしまいます。
源範頼は起請文を出して無実を訴えます。
しかし、範頼の家臣が主人のため何か情報を得ようと、頼朝の寝所の床下に忍びこんだため、かえって疑いが深くなってしまいました。
隣室で聞き耳を立てるならばまだしも、よりにもよって床下では、暗殺を企てていたととらえられても仕方がありません。
源範頼は伊豆に流され、そのまま亡くなりました。暗殺説もあります。
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もう一つの不幸は、大姫の病気でした。
このころ大姫の容態は、頼朝や政子の平癒祈願をよそに、一進一退の域を出ない状況が続いていたのです。
頼朝や政子は結婚を勧めたり、旅行に行ったりして大姫を明るい気分にしようとしましたたが、ほとんど効果はなく。
やはり最初の婚約者・義高を想う気持ちが強かったのでしょう。幼い頃から共に暮らしていれば、それも仕方のないことです。
頼朝は最後の手段として、京都への家族旅行を決めます。
もちろんただの娯楽ではなく、東大寺再建を始め、京都・奈良の寺社参拝や、宮廷への政治工作などいろいろな目的がありました。
それらの用事を片付けながら、当時十六歳の後鳥羽天皇の後宮に、大姫を入れる工作をしようとしていたのではないかと言われています。
野心だけでなく、全く違った環境に行かせることで、大姫の気分を切り替えさせて健康に……という親心もあったのでしょう。
当時、後鳥羽天皇の寵愛を受けていた女性は二人。
関白・九条兼実の娘である任子(宜秋門院)と、源通親の養女・在子(承明門院)です。
そしてこの建久六年(1195年)8月に任子は皇女を、11月に在子は皇子(後の土御門天皇)を産みました。
頼朝一家の京都旅行の時点では、二人ともまだ出産前ですし、兼実は頼朝を政治的な味方につけようとすべく、大姫入内に協力するつもりでいました。
しかし、兼実とは政治的に反発していた人々もいて、大姫の入内は実現しません。
「源氏が平家と同じように、外戚となって権勢をふるい、横暴を働くのではないか?」と思われても仕方がないですしね……。
頼朝一家は4ヶ月ほど京都に滞在して、6月に鎌倉への帰路につきました。
途中、美濃で政子の妹(御家人・稲毛重成の妻)が危篤と知らされ、頼朝たちに同行していた重成は馬を賜って一人急いで鎌倉へ帰っています。
しかし臨終に間に合わず、重成は嘆き悲しんで出家。
政子も妹の喪に服しました。
その一方で、大姫の病気がまた重くなってしまいます。これは長旅が体に障ったものでしょうか。
一時は高僧の祈祷で持ち直したものの、建久八年(1197年)7月14日に大姫は20歳(または19歳)で亡くなっています。
夫に続き娘にも不幸が
娘を失った悲しみも薄らがない建久十年(1199年)1月13日のこと。
今度は夫の頼朝が亡くなってしまいました。
死因は何だったのか?
前年末に、重成が亡き妻の供養として作った橋の落成式に参加し、その帰り道に落馬して意識を失い、落命したと伝わります。
ただし、この年は『吾妻鏡』の記事が欠けていて、詳細は不明。
あまりにも急なことだったため、当時から安徳天皇の祟りなどの怨霊説があったようです。また、時代が下るにつれて北条氏による暗殺説も唱えられるようになりましたが、ここでは触れません。
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頼朝の跡は18歳の源頼家が継ぐことになりました。
北条政子としては心配が絶えません。
幸い、実家の父・時政や弟・義時、そして大江広元・三善康信などの宿老たち、頼家の舅・比企能員など、政治的に頼れる相手はたくさんいます。
ご存知『鎌倉殿の13人』でお馴染み、十三人の合議制ですね。
この時点で政子は、彼らや他の御家人たちとよくよく相談して政治を行うこと、決して独断専行しないことなどを言い含めておくにとどめたようです。
なぜかというと頼朝の四十九日法要を済ませた後から、次女・三幡が病みついていたからです。
四十九日が2月2日で、5日には高熱を出していたとか。
政子は鎌倉中の寺社で祈祷を行ったものの、病状は悪化の一途。都に丹波時長という名医がいると知って、急いで鎌倉へ来てくれるよう頼んだものの、なかなか返事が来ません。
焦れた政子は、12日に「まだ来てくれないのなら上皇様に訴えます!!」と詰め寄る使いを出しました。
この”上皇”は後鳥羽上皇のことで、この頃は位を退いていました。
なぜ後鳥羽上皇の名が出てくるのかというと、三幡が上皇の後宮に入る話が出ていたから……という理由のようです。
5月6日に時長は鎌倉へやってきて治療を始め、薬を与えたところ、一時的に三幡は回復しました。
政子も皆も喜びましたが、6月半ばにまた悪化すると、疲労がひどく、目の上が腫れてきていたといいます。
さすがに丹波時長も「もはや、どうにもできぬ」と匙を投げてしまい、これに驚いたのが、姫の病状を伝え聞いた養育係の中原親能(大江広元の兄・親能の妻が三幡の乳母)でした。
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彼は頼朝の死後、京都で事務処理をしていたのですが、一報を聞きつけると急いで鎌倉へ。
医師の時長も、さすがに治療は行っていたでしょうが、6月20日に三幡は息を引き取ってしまっています。
親能が25日に到着すると、時長は待ってましたと言わんばかりに26日には京都への帰路につきました。この時代では仕方のないことですが、よほど関東に来るのが嫌だったのでしょうね。
後鳥羽上皇から弔問の使者を出されていたことからしても、三幡入内の計画があったことは間違いないとみていいでしょう。
こうして政子は、夫と娘二人を相次いで亡くしてしまいます。
おそらくはまだ若い源頼家、そして幼い源実朝にも大きな衝撃を与えたでしょう。
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