北条政子

絵・小久ヒロ

源平・鎌倉・室町

北条政子はどうやって鎌倉幕府を支えたのか 尼将軍69年の生涯と実力を振り返る

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義高と大姫の婚約破綻

義仲は同じ源氏の頼朝を味方につけようと、長男の木曽義高(別称:志水冠者)を人質に送ってきました。

頼朝はこれを喜び、長女・大姫と義高を婚約させます。

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北条政子も娘だけでなく、義高の世話をこまめにしていたとか。これでいくらか夫婦の空気も和らいだ……かもしれません。

しかし、義仲軍の粗暴は京の人々の反感を買い、反対に頼朝への期待が高まるばかり。

公家の九条兼実はこう評しているほどです。

「平家と義仲が公家と後白河法皇の領地を占領してしまっているので、事務が全くできず、税も途中で奪われてしまっている。

都の商売も滞り、民の生活も危うい。

頼れるのは頼朝だけだ」

こうした状況の最中、義仲は【法住寺合戦】を起こして後白河法皇を監禁するという最悪の手段に出ます。

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一報を聞いた頼朝も、覚悟を決めて弟の源範頼源義経を義仲討伐に送りました。

こうなると、義仲の息子である義高を生かしておくわけにはいきません。

一度は大姫の機転で逃げ出せましたが、数日後、堀親家の郎従に捕まり、義高は元暦元年(1184年)4月に入間河原で斬られてしまいます。

当然のことながら、婚約者だった大姫は深く嘆き悲しみ、その後、生涯にわたって病人になってしまいます。

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政子も娘が不憫でならず、

「命令で追いかけたとはいえ、内々に大姫へ知らせてくれれば助ける方法もあったでしょうに」

と怒りました。

頼朝も妻と娘の意見に同意したものか、義高を捕らえた者を斬ったといいます。その人にとっては、命令に従ったのに後からイチャモンをつけられて殺されたようなものですが……。

一方で、政子の優しい面が見える逸話もあります。

当時、一の谷の戦いで捕虜になった平重衡(清盛の五男)が鎌倉に来ていました。

彼は牡丹にも例えられた美貌の持ち主で、気品ある人物だったといわれています。

頼朝も伊豆で対面して以来、重衡に好感を抱き、酒肴を送ったり、都の事情や文化に詳しい者を遣わすなどしていました。

政子も頼朝に同調したものか、自分の侍女の一人である”千手の前”という者を

「田舎娘もご一興でしょうから、しばらくお側に置いてやってください」

と言って侍らせたといいます。

とはいえ、重衡は悪名高い南都焼討の実行者。清盛の命でやったこととはいえ、直に手を下した者がそう易々と許されることはありません。

少々時系列が前後しますが、元暦二年(1185年)6月に重衡は奈良の僧侶たちの要求で引き渡され、処刑されています。

千手の前は妾でしたから、当然同行することはできませんでしたが……その後も重衡を想い続け、処刑の数年後に若くして亡くなったとか。

いずれも、良し悪しはさておき、政子を始めとした鎌倉の人々が情の濃い質であったことがわかる逸話です。

 

平家滅亡

平家軍が瀬戸内海に逃げ込むと、頼朝は最後の仕上げにかかります。

源範頼らを送って九州の武士に協力を取り付けようとしました。

しかし、九州の武士は平家方が多く、兵糧や馬・船がなかなか揃いません。ここで無理強いをすれば、源氏への心証が悪くなって話がこじれてしまいます。

頼朝は決して手荒なことをしないように、と何度も書き送っていました。範頼たちもそれをよく理解し、時間をかけて九州の武士たちから協力してもらうことに成功します。

その間に士気が落ちていることを危惧し、頼朝は京都にいた源義経にも出陣を命じています。

このころの義経は、頼朝を介さずに朝廷から検非違使に任官されており、兄弟仲が不穏になりつつある頃。

しかし、義仲軍によって荒れていた京都の治安を回復させたことなどにより、民衆や兵からの人気は抜群だったため、頼朝はその影響力をうまく使おうとしたのでしょう。

北条政子は、頼朝と一緒に鎌倉で所々の寺社へ詣で、ひたすら戦勝祈願と供養をしていました。

そのうち【屋島の戦い】、続いて【壇ノ浦の戦い】における勝報が届き、平家に関する憂いはなくなります。

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この年は『吾妻鏡』の記述が少ない年なので断言できませんが、おそらくこのころ政子は次女・三幡を出産したと思われます。

後々の三幡の享年からすると少しのズレは生じる一方、この時期に「頼朝が常陸介時長の娘を寵愛していた」という記録があるからです。懲りん人ですな。

政子が妊娠・出産していた時期だからこそ、また別の女性に気を移したと考えれば辻褄は合うでしょう。

出産との前後関係は不明ながら、政子に関するこんな話もあります。

壇ノ浦の戦いの後、京都にいた木曽義仲の妹・宮菊が鎌倉へやってきました。

政治的なことにあまり関わっていなかったのですが、彼女の名を借りて周辺の武士が荘園を荒らすという事件が相次ぎ、宮菊は肩身の狭い思いをしていました。

義仲の滅亡は自業自得でしたが、宮菊個人には関係のないことですからね。

不憫に思った政子は、宮菊に一度鎌倉へ来るよう勧めています。

頼朝も妻の意見に賛成し、親戚の誼で美濃のとある村を宮菊に与え、生活が立ち行くようにしました。

 

静御前の舞

北条政子は、行き場や後ろ盾のない女性に対して、特に優しく接した逸話を多く持っています。

平家滅亡後、立ち回りに失敗して失脚した義経の愛称・静御前との逸話もその一つでしょう。

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この頃、静御前は上方から逃げる途中で義経とはぐれて捕まっており、母の磯禅師と共に鎌倉へ連行されてきていました。

京都での証言と鎌倉での証言が食い違っていたため、頼朝からかなり厳しい目で見られ、厳しい立場になっていたようです。

しかし妊娠中の身であることなどから、政子は同情の目で見ていました。

頼朝が好感を持てるようにか、鶴岡八幡宮を参拝したとき、静を呼び出して舞を所望しています。

罪人扱いを受けている静としては、あまり気の進まないことでした。

しかし政子は、こう説得します。

「天下の舞の名手がこの地に来て近く京都へ帰るというのに、その芸を見ないのは残念です。

ただの見世物ではなく、八幡大菩薩に供えるのだから恥ではありませんよ」

こうなると静も断りきれず、渋々ではあったが舞うことに。

静御前の舞を描いた錦絵(頼朝は画面左奥に)/国立国会図書館蔵

ここで

よし野山 みねのしら雪 ふみ分て いりにし人の あとぞこひしき

しづやしづ しづのをだまき くり返し 音を今に なすよしもがな

という義経を慕う歌に合わせて舞ったので、かえって頼朝は怒ってしまった……という有名な話があります。

「八幡宮に供えるために舞えといったのに、反逆者である義経を想う歌を使うなどもってのほか!」

そんな頼朝に対し、政子は冷静に説得。

「そうはいっても、行方の知れない夫を案じるのは妻として当然のこと。

石橋山の合戦の後、私も貴方様の行方がわからず、魂が消えるような心地でした。私には静殿の気持ちがよくわかります。

今は追われる身とはいえ、義経殿に長年愛されたことを忘れるなど、女性として有り得べからざることです。

ですからどうぞご勘弁ください」

頼朝も、これにはハッとしたらしく、怒りを収め、静に褒美を与えたといいます。

また、静の滞在中、長女の大姫は病気快癒のため、祖父・源義朝を祀る御堂に参籠していました。静はこの御堂にも舞を納めています。

政子が娘のために、この御堂へ舞を奉納してほしいと静に頼んだのかもしれません。

静としても、公衆の面前で過去を語ってまで自分の味方をしてくれた政子に、少しでも恩返しを……という気持ちだったのではないでしょうか。

そうこうしているうちに、静の出産が近づいてきたので、もうしばらく鎌倉にとどまることになりました。

生まれたのは……残念ながら男児でした。本来ではめでたいことも、この状況では末路は一途。幼いからといって見逃すと、いずれ父の仇を討つために牙を向きかねません。

政子もそれは承知の上で助命を願い出ましたが、頼朝自身が似たような経緯をたどってきているだけに、許すことはできませんでした。

静は出産から2ヶ月ほどして、母と共に京都へ帰っています。政子と大姫は哀れに思い、餞別の品をいろいろ送ったとか。

その後、静と磯禅師の消息は不明です。

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