室町時代

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室町時代を一気に読む!南北朝~安土桃山時代のカオスな中世が圧倒的に面白い

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次第に社会は荒廃 乱や一揆が増えてくる

日頃から強硬策を取りがちな義教が、穏便な手段を選ぶことはありません。

憲実は責任をとって身辺整理をし、自害しようとまで考えたといいます。

しかし、僧侶に説得されて考え直し、やむなく持氏とその息子・義久を攻めて自害させることに……。

『結城合戦絵詞』足利持氏自害の図/wikipediaより引用

関東で起きたこの一連の騒動を【永享の乱】といいます。

この余波は元凶の持氏がいなくなっても決着がつかず、さらに面倒な事態を引き起こしていくことになるのですが、これまた長くなるので、この記事では時代を先に進めます。

永享の乱で関東に火種を大量投下~そして鎌倉公方・足利持氏は切腹へ

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実はこの辺りから「○○の乱」や「▲▲のナントカ一揆」という事件が増えていきます。

室町時代をなんだか複雑にしている要素の一つですね。

いざ暗記しようとしてもイメージが湧かないから覚えにくい。しかも、あまりにも頻発する。

「当事者は誰なのか」
「起きた場所はどこか」

こういった基本事項を先に捉えて、それから経過を見ていくと覚えやすいかもしれません。

義教はそういった物騒な事件には「目には目を」的な解決方法を取り、ときには守護大名の誅殺などもしました。

ちょっとしたことで老若男女問わず、苛烈な処断をしたという逸話も多々あります。

ぶっちゃけ、織田信長よりよっぽど「魔王」な言動をしています。

繰り返しますが、元天台座主(一番偉いお坊さん)です……。

と、これが、あまりにも物理的解決過ぎて恐怖政治状態になり、最期は室町幕府のお偉いさんグループである四職(ししき)の一人、赤松満祐に暗殺されてしまいました。

この事件は【嘉吉の乱】と呼ばれています。

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日本中を戦乱の巻き込む一大合戦始まった

義教の息子である七代将軍・足利義勝は、就任から数ヶ月、かつ満9歳で亡くなってしまいます。

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そして、その弟・足利義政が八代将軍になりました。

応仁の乱】で有名な人ですね。

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義政というと、まともに仕事してなかったことが有名ですが、実は若い頃は真面目に将軍の職務をやっていたこともありました。

例えば、関東公方が関東管領をブッコロしてしまったことに始まる【享徳の乱】や、守護大名家での相続争いなどにも介入。

ただ、享徳の乱が28年も長引くわ、相続争いも頻発しっぱなしだわでヤル気を削がれてしまったようです。

まあ、いくら行動に移しても成果が上がらないんじゃ、誰だってイヤになりますもんね。

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義政は長いこと息子に恵まれなかった上、寛正二年(1461年)には、京都を含めた周辺地域で飢饉が起きるという最悪な事態に見舞われます。

しかも、積極的に対策を打たねばならない立場の義政は、この頃にはすっかり仕事がイヤになってしまっており、酒宴や将軍御所の改築など、暴君のテンプレみたいな趣味に没頭していました。

そして応仁の乱が始まります。

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中央から地方へ 権力が散らばっていく

応仁の乱が一段落した後。

幕府の権力・権威は痛いほどに落ちてしまい、それまで京都にいた大名たちもガラッと態度を変え始めます。

『こんなショボい幕府からお墨付きもらってもしょーがないし、地元で商売なりなんなりしていい暮らししよう!』

例えば、大陸との貿易が盛んだった山口(大内氏)など。

彼らをアテにして、京都から地方の大名に身を寄せる公家も少なくありません。

ちょっと変わったところでは、元々持っていた土佐の荘園に腰を落ち着けた一条教房(前関白)などもいますね。

こういった公家の移住は上方の文化が地方に伝わるキッカケにもなり、山口や土佐は小京都と呼べるほどの町並みになりました。

武士のほうでも、文化的後進という意識が強かったこと、また権威付けのために、都落ちした公家を進んで迎え入れています。

世相が物騒なことを除けば、win-winといえなくもない。

さて、この辺から【戦国大名】という単語が出てきます。

それまでの【守護】とは何が違うのか?

ハッキリした定義はないですが……変化していく経緯をつかんでおいたほうが、戦国時代をほんの少し理解しやすくなるかと思います。

守護大名は、室町幕府から任命された守護として、各地の軍事・警察・徴税などの権限を持っていました。

彼らが次第に経済力をつけ、周辺の有力者=国人(地侍・小領主)を家臣にし、実力を高めていったものです。

例えば、足利氏の親戚である斯波(しば)氏、畠山氏、細川氏や、貿易で財を成した大内氏などは、数カ国を支配する強大な力を有しておりました。

こうした守護大名は、幕政に参与するため京都に滞在していることも多く、代わりに守護代(=”守護”の”代”理)を在国させることもありまして。

そこが一つの下剋上ポイントになります。

全ての守護代が誠実だったわけもなく、留守中に良からぬことを企んでのし上がる!なんてケースもありました。

有名どころだと、毛利元就が幼い頃、そんな感じのトラブルに遭っています。

正確に言えば、その頃の毛利家は国人(地元の有力者)であって守護大名ではないんですけども。

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戦国大名という単語自体は、実は1953年に生まれた新しい用語です。イメージとしては、守護大名がさらに自治性を強めたという感じでいいかと。

発生の経緯は、おおむね四パターンに分かれます。

①守護大名がさらに自治性を強める

→島津氏・大友氏・宇都宮氏など

②守護代やその下の家臣が下剋上

→織田氏・尼子氏・三好氏など

③国人や宗教団体が自治能力を持つ

→毛利氏・筒井氏など

④国や所領を持たないかそれに近い状態から成り上がり

→斎藤氏・後北条氏など

珍しいパターンとしては、前述のように、元々は公家だった土佐一条氏、朝廷から任じられた国司が戦国大名化した北畠氏などがあります。

戦国大名とは言いにくいですが、比叡山延暦寺や石山本願寺も似たような勢力ですね。

こうして各地方で大名同士が領地や利権などを巡って戦が頻発、まさに戦国の世になるわけです。

しかし、灌漑や街道などの公共設備や、各大名が自分のシマを治めるための法律【分国法】を整備して、社会の進歩もみられました。

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