室町時代

源平・鎌倉・室町

室町時代を一気に読む!南北朝~安土桃山時代のカオスな中世が圧倒的に面白い

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集団行動とか暴動を意味する「一揆」も盛んに

さて、もう一つ、室町・戦国時代をややこしくしている用語「○○一揆」を見てみましょう。

「一揆」という言葉には「集団行動」や「暴動」という意味があります。

種類も主に3つあり、この時代においては名前で性質が見分けられますね。

①国一揆
→その土地の有力者=国人が起こした一揆

②土一揆
→農民が起こした一揆

③一向一揆
→一向宗=浄土宗の信徒が団結して起こした一揆

それぞれ起きた時代の年号をとって【正長の土一揆】とか、起きた場所の地名から【山城の国一揆】など、受験でもいくつか問われるものがあります。

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「一揆を起こしたのがどこのどんな人達だったのか?」

これに着目するとわかりやすくなるでしょう。年号と名前だけで必死に覚えようとしても頭が痛くなるだけです。

文化面に目を向ければ、戦国の頃には、海の向こうのヨーロッパから新たな文物が入ってくるようになりました。

その代表が

・鉄砲伝来
・キリスト教伝来

でしょう。

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もともと香辛料や金、奴隷などを求めつつ、同時にキリスト教を布教していたヨーロッパ人。

南米大陸でスペインやポルトガルが「現地の住民をブッコロして入植!」という無茶をしていたことを考えると、日本は幸運でした。

当時はまだ航海技術が未発達。

通常の航海でも生還率が20%程度で、戦争どころじゃないというのも大きな理由ですが……日本もヨーロッパと近かったら軍事衝突は確実だったでしょう。

というか戦国時代バリバリで農民から武士まで総武装状態だったから、全力で追い返したかもしれませんが。

元寇のときでさえ散々抵抗していますしね。

数倍の距離を渡ってくるヨーロッパの軍は、かなり分が悪かったはずです。

中国か東南アジアあたりの拠点と往復された……まぁ、その辺はIF戦記の世界ですね。

 


民衆の社会レベルが上がり文化経済も発展する

室町・戦国時代の生活・慣習については、もう一つ大きな特徴があります。

鎌倉時代以前と比べて、民衆の社会レベルが上がり、当時の生活風景や職業などが見やすくなっているのです。

小売業の登場や馬借・車借といったレンタル業、行商人なども登場。

彼らを後押しする形で交通網も整備され、関所もできました。

また、文化史でおなじみの

【書院造】
【茶の湯】

など、現在の日本文化の元となったものが多々生まれた時代でもあります。

他にも庶民が関わったと思われる物には、室町幕府のダメっぷりを批判した【二条河原の落書】があります。文章の調子がいいため、ある程度学のある人が書いた可能性も高いですが。

「戦争によって技術が向上する」というのはどこの国でもある話です。

室町時代はそれと共に日本社会が成長した時代。

歴史の流れや戦国大名・戦国武将の話題が派手で人気ですけれども、民俗学や文化史的な面をたどるのが楽しい時代かもしれませんね。

 


三英傑の活躍から江戸時代へ

不穏な空気ながらに社会が発展し、戦国大名が相争う中で頭角を現したのが、皆さんよくご存じの織田信長です。

信長も、スタートした時点ではまだ尾張一国の統治も難しく、勢力的に心もとない状態でしたが、尾張=東海道=京都と行き来しやすい場所が地元だというところが大きなアドバンテージになりました。

足元が固まってからは、ポンポン京都と本拠地を往復。

自身の才覚だけでなく、多くの優秀な家臣に恵まれて天下人寸前まで登り詰めました。

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地方の戦国大名の中にも、

「今、尾張の織田信長ってヤツの勢いがすごいらしい。今のうちに仲良くなっておこう」

と考え、手紙や贈り物をする者がいたほどです。

例えば、伊達政宗の父・伊達輝宗などが鷹を送ったりしていますね。

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しかし、本能寺の変によって信長の進路は絶たれ、代わりに羽柴秀吉が台頭。

織田家の有力な家臣だった柴田勝家らに勝ち、その後、徳川家康長宗我部元親など、一定以上の勢力を持つ大名に勝って一気に勢力を広げます。

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秀吉はさらに、朝廷で関白の座を巡る争いが起きていたことを利用し、近衛前久(信長のマブダチ)の猶子になって、自分が関白になるというウルトラCもやってのけました。

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この威光を利用して、九州最大勢力の島津氏も討伐。

続いて関東の後北条氏も討ち、その流れで東北の諸大名も傘下に収めて一気に天下統一を成し遂げます。

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そして【刀狩り】や【太閤検地】などを全国に行うことにより、統治を進めた……のですが、晩年の【豊臣秀次事件】や【朝鮮出兵】で自ら政権を瓦解させる要因を作ってしまいました。

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秀吉亡き後、豊臣家臣は主に「石田三成が憎いかどうか」を基準に割れてしまいます。

そこにつけ込んだのがご存知、徳川家康ですね。

家康は次々に味方を増やし、【関ヶ原の戦い】で勝利を収めて実質的な天下人となります。

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関が原の戦いから三年後に征夷大将軍となって【江戸幕府】を開きましたが、豊臣家を滅ぼすことはせず、しばらく折衝を重ねました。

豊臣側の出方によっては公家として生き残らせることを考えていたフシもありますが、結局、交渉は決裂、1614~1615年の【大坂の陣】にて豊臣家は滅びます。

豊臣恩顧だった大名たちもこの間に鳴りを潜め、応仁の乱からの戦乱の世はようやく落ち着きを見せます。

もういっちょ戦はありますが、それはまた江戸時代のところで。

どうでしょう?

読むだけでも疲れちゃいましたかね。

でもなんとなく、室町時代から戦国時代の流れをつかめたかなぁ、と。

次回からまたひとつずつ事象を見ていきたいと思います。

※諱(いみな)……貴人の本名のこと。昔は本名には言霊が宿るとされ、滅多に口に出すものではないとされていたため「忌み名」=「諱」とされ、記録上でしか使われなかった。


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【参考】
国史大辞典

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