関東八平氏

上段左から梶原景時・千葉常胤・上総広常 下段左から土肥実平・畠山重忠・三浦義澄/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

関東に拠点を築いた坂東八平氏~なぜ清盛に従ったり源氏についたりしていた?

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坂東八平氏
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武士に理想や思想など無かった時代

武士とは何か?

そう問われたら「忠義でしょう」と答えるのが適切なようで、実際のところ、そうした思想は鎌倉時代を経て作られていったものです。

『鎌倉殿の13人』に登場するキャラクターたちの相関図が難しいのは、何か統一の基準を持ち得なかったからかもしれません。

これが幕末の武士となると、ゆるぎない忠義心がありました。武士だけでなく、知識欲旺盛な貧農までも高い精神性と知恵があった。

彼らは、自らの忠義を漢詩や和歌に託し、散ることもある――その代表格が奇兵隊や新選組です。

戦国の武士にも思想や矜持はありました。

たしかに当時は下克上があり、主君を替えて生き延びることは重要でしたが、それでも主君や親を裏切った武士が、そのことに罪悪感や恥辱を覚えたりしています。

タブーを破っている自覚があるからこそ、そうなる。

そこで鎌倉武士です。

「いざ、鎌倉!」

この有名な言葉の背景には【御恩と奉公】があります。武勇で活躍すれば、土地の支配権を認める。そんな契約関係ですね。

画像はイメージです(男衾三郎絵詞/wikipediaより引用)

そうした明瞭な関係性は平安末期にありません。

ゆえに武士たちは、血縁や主君などより、自領確保を基準に生きていきます。

朝廷にしても、彼らが勝手に行動することを、禁じる手立てがなかった。

京都の平家も、その辺を甘く見ていたのでしょう。

ゆえに利害が一致する方へ、坂東八平氏も流れてゆきます。

「裏切っている」なんて気持ちを微塵も抱くことなく、自領や近親一族のために動いたのでした。

 


坂東武士の鑑とされた重忠でさえ

坂東武士の鑑”とされた坂東八平氏出身の畠山重忠

その重忠ですら、上方の父は平家方で戦っていたにも関わらず、自身は裏切って源頼朝につきました。

・父への離反

・主君を替える

このことが恥辱であったなら、彼は評価されなかったでしょう。

悪七兵衛景清こと藤原景清と対峙する畠山重忠(歌川貞秀:画)/国立国会図書館蔵

坂東八平氏は、忠義心を含んだ規範が定着する前に生きていました。そして、所領と血筋をつなぐためなら、離反すら厭わなかった。

それゆえ、後世の人々は困惑してしまいます。

武士ってこんなにドライだったの?

みっともなく命乞いしてない?

源平というけど、平氏が源氏に味方したり、そうかと思えば頼朝と対立した佐竹氏は名門の源氏だ! 源氏同士でも争っている! どういうこっちゃ???

価値観が決定的に変わったため、そうなってしまうんですね。

子孫も困惑します。

先祖がポンポンコロコロと、利害だけで主君を替えていたとなると気まずい。

ゆえに歴史修正をはかり、書物に改ざんが加えられ、ますますわけがわからなくなってゆく。

歴史物語は、先祖の顕彰や教訓として使われるものです。ゆえに簡単に裏切りる先祖を認められず、修正を入れてしまう。

では我々はどう楽しめばよいのか?

まずはバイアスを一旦はずして考えるしかないでしょう。

そうすることが役作りの一環であると、『鎌倉殿の13人』で大庭景親を演じた國村隼さんも語っていました。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』(→amazon
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon

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