『三国志』関連の人物伝を執筆するならば、別格扱いで最初に取り組むべき人物として、以下二名が頭に浮かびました。
この二人だけは、長くなる。
今にして思えば、曹操はもっとテーマ別に分割すべきでした(以下の記事は8万字以上あります、スミマセン)。
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その反省をふまえて、諸葛亮は分割して考えたいと思います。
通常の人物であれば、武将、政治家、思想家、文学者……そういった像でだいたいが分析できます。
しかし、曹操と諸葛亮はその姿が多く複雑です。
この二人を別格とみなす考え方は私独自でもありません。
吉川英治氏の『三国志』においても前半部の主役が曹操、後半部の主役が諸葛亮とされておりました。
前置きはこれぐらいにして、諸葛亮の日本での受容について、振り返ってゆきたいと思います。
※文中敬称略
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「諸葛亮の何がそんなにすごいの?」
呉の人物を記すのは、誤解を恐れずに言えば割と楽。
魏の大半の人物もそうです。
「過小評価されているから『演義』のことは考えずにいきましょう」
以下、周瑜の記事もそうでした。
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これが魏での曹操、晋を建国する司馬懿となると、複雑ではあります。
「『演義』で悪辣さを割り増ししてあるけれども、史実の時点でそういう要素はあります」
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一番ややこしいのが、蜀の人物。
正史について振り返りつつ、『演義』はじめフィクションの味付けを分析する必要があります。
中でも関羽は、神格化されただけに受容を別テーマにする必要があります。
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他ならぬ諸葛亮も同じ。人気が別格であるがゆえに、いろいろとややこしいのです。
そういうアンタはどうなんだ、諸葛亮が好きなのか、そういう疑問はあるかもしれません。
正直に言います。
ひねくれていると前置きしまして、あまり好きでもなかった。
なんだかアイツだけ、忙しいところで楽をしているような。気取ってマウントしているような。性格もよろしくないと思える。
義だなんだというけれども、それはあくまで味方に対してだけ。
さんざん周瑜や王朗を煽り死に追いやり、藤甲兵でバーベキューをする姿は、根性が悪いとすら思えてしまいました。
三国志ファンに恐る恐る尋ねてみたところ、実は、そう考えているのが自分一人でもなかったとわかって、驚いた記憶があります。
武士「やはり関羽でござる」
日本人は、『三国志演義』が漢籍で輸入できるようになると、むさぼり読みました。
武士階級では、あるべき義士の心得を学ぶ教養として楽しまれ、全国各地の藩校でテキストに採用されたほどです。
薩摩藩士たちは『三国志演義』等のテキストを輪読して、英気を養う行事もありました。
そこでふと疑問に思います。
日本の武士にとって諸葛亮のような軍師はどう受容されたのか?
ここが難しいところではあり、
そもそも軍師とは何ぞや?
という問題から考えねばなりません。
日本で代表的な軍師的存在は黒田官兵衛や竹中半兵衛あたりでしょう。
他にも
本多正信
直江兼続
片倉小十郎景綱
山本勘助
小早川隆景
真田昌幸
︙
︙
こういうメンツを見ると「戦国時代の軍師だなぁ」となるわけですが、当時、軍師という概念が実在したかどうか、ここは考えどころです。
軍師イメージの源流ともされる「軍配者」は、気象予報、占術、儀式の担当者であり、参謀役である軍師像とは異なります。
軍師像は『三国志演義』や『水滸伝』といった大陸由来のフィクションから膨らませた――そんなイメージ借用の形跡があります。
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日本の武士は、中国大陸や朝鮮半島の将とは求められる資質が違います。
ここで挙げた「軍師」たちは「賢い、あるいは補佐役を務めた武将」であり、例えば太原雪斎のような僧侶ならば軍師に近いとはいえます。
しかし、武士は「弓馬の道」が「武士の道」と同意であるとされるほど、個人的な武勇が重視されました。
諸葛亮のように、車に乗って移動する姿は、何か違うわけです。
大谷吉継のように、病気によって歩行困難となれば仕方ないにせよ、はじめから馬に乗れないほど脆弱では、とても武士とは言えない。
というのも、日本以外の東アジアでは、科挙合格者が武科挙(実技のある軍人登用制度)より上の階級につくこともしばしばありました。
名将に求められる条件も異なります。
個人的武勇はそこまで大きくは問われず、むしろ知略を駆使して、勝てる戦術と戦略を巧みに組み立てる。そのことが重視されるのです。
日本における武士の理想像と、それ以外の東アジアの将に求められるものは異なるんですね。
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そうなりますと、武士の理想も「武勇があって義を尽くす・関羽」となるのも無理もない。
江戸時代まで、武士の間でも諸葛亮は関羽ほど人気ではありませんでした。
『三国志』のファンだった少年時代の近藤勇は「関羽はまだ生きているの?」と語っていたそうです。
これも、関羽人気の一例でしょう。
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武士はさておき、庶民は?
庶民にまでブームが及んだのは、江戸・元禄2年(1689年)初期に湖南文山が『通俗三国志』を出版して以来とされています。
庶民が興奮しながら読み、講談を聞き、刺青のモチーフにする――ならば、きっとみんな諸葛亮が好きだったんだろうと思いますよね。
と、これが結構冷静だったようで、こんな川柳も残されています。
煤掃 孔明は 子を抱いて居る
合戦を大掃除に例えているわけです。
関羽やら張飛やらがあくせくと箒を動かしている間、あいつは子守をしているだけじゃねえか! そんなストレートな揶揄がそこにはありました。
確かに、車に乗って甲冑もつけずに羽扇を降っている姿は、楽をしているように見えなくもありません。
人気は関羽や張飛のような、元気ハツラツとした武将に集中しておりました。
火事と喧嘩にいきりたつ。そんな江戸っ子が、しらけきった諸葛亮を愛さないのは仕方ないところでしょう。
侠客や火消しが好んだ刺青のモチーフに、諸葛亮は「なんか違うよな……」となってしまうのもわかりますよね。
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