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絵・富永商太

豊臣家 週刊武春

豊臣秀吉62年の生涯をスッキリ解説!【年表付き】成り上がり伝説を史実で検証

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本能寺の変、勃発! 伝説の「中国大返し」始まる

いざ中国地方へ進出――。

天正5年10月、信長の命令で毛利氏の勢力下にあった中国地方攻略を命ぜられた秀吉は、長浜城を妻のおねに任せて播磨国へ出陣した。

秀吉の播磨平定は順調に進み、播磨国守護・赤松氏配下の赤松則房・別所長治・小寺政職らを従え、かねてから交流のあった黒田官兵衛(孝高)から姫路城を譲り受け、ここを中国攻めの拠点とする。

しかし天正6年2月、別所長治が毛利方へと離反、拠点である三木城を包囲。
2年にわたり過酷な兵糧攻めとして知られる「三木の干殺し」を敢行する。

この戦いの最中、秀吉にとっては信じがたいことが起きる。同年6月、播磨・伊丹城の荒木村重が離反したのだ。
ここを押さえられれば中国地方と近畿地方への通路が遮断され、地理的に見て、窮地に立たされるのは明白。

中国攻略は一時膠着せざるを得ず、しかも村重の説得に向かった黒田官兵衛(孝高)が、逆に有岡城に1年余り幽閉される事件もおきてしまう。
織田家にとってもピンチと言える状況となった。

風向きが変わり始めたのはその翌年。
天正7年(1579年)に備前美作の大名・宇喜多直家が服属し、10月にはようやく有岡城を陥落、天正8年1月には前述の三木城を攻略した。

さらに翌天正9年には、事前に周囲の米を買い上げた上で鳥取城を完全に包囲し、数千人もの人々を餓死へと追い込み、同城を陥落させる(鳥取の飢え殺し)。
※このとき大河ドラマでも主役になった黒田官兵衛が共に暗躍していた。

天正10年(1582年)、秀吉は、毛利方の備中高松城(岡山県)で水攻めを行っていた。

敵城主は今なお名将として名高い清水宗治。
援軍にやってきた毛利方としてもこの拠点を落とされるワケにはいかず、さりとて秀吉との全面対決には至らず、ジリジリと大軍の鼻先を突き合わせて動けずにいる日々が続く。

戦局を動かすには、織田信長、直々の出陣がしかるべきか――。
後世から見てもかような判断をしてもおかしくない、まさにそんなとき、秀吉にとっては雷に打たれたような激震が走ったであろう出来事が勃発する。
日時は6月2日早朝。そう、本能寺の変が起きたのだ。

秀吉が、信長の死を知ったのは6月3日夜から4日未明と言われる。
つまり事件後36時間から48時間のうちに知らされていたのだから、その情報網はかなり高度なものだったと推測できる。

秀吉は信長の死を隠し、高松城主・清水宗治の切腹を条件に、毛利輝元と講和を結び、即座に京へ軍を引き返した。
※実際は、水運を通じて毛利方にも「本能寺の変」が伝わっていたという見方もある。となると、なぜ毛利方は秀吉の背後へ襲いかかることをしなかったのか?という疑問も湧いてくるが、領土拡大を望まない毛利としてはここで秀吉に恩を売っておき、事後の所領安堵を担保しておきたかったのかもしれない

そして歴史に残る大移動劇が始まる。
「中国大返し」だ。

イラスト/富永商太

 

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山崎の戦いで明智光秀を討ち、清須会議に臨む

備中高松から京都まで約200km。
これを約10日間で走りきったとする「中国大返し」の秀吉軍について、日程の詳細は諸説あるが、9日未明には姫路城を出立したことが様々な史料で一致している。

 

秀吉は配下の兵に姫路城の米や金銭をすべて分け与え、明智光秀との戦いに決死の覚悟で臨んだ。

場所は京都の山崎である。

短期間で大軍の動員に成功した秀吉は、6月13日、満足に態勢の整わない明智軍と決戦、首尾よく勝利を治める。
同合戦は山崎の戦いとも天王山の戦いとも言われ、その兵数は史料により異なるが、太閤記によると秀吉軍4万に対し明智軍は1万6000しかおらず、迅速な行軍が勝利につながったといえるだろう。

信長の弔い合戦で主君の仇を討った秀吉は、織田家臣団の中で政治力・発言力を強め、臨んだ清須会議では三法師(後の織田秀信/信長の長男・織田信忠の息子)を担ぎ出した。

同会議は、織田氏の後継および領土配分を決めるもので、単純に石高だけ見ると重臣・柴田勝家を抜くことになるが、同時に近江の要衝であった長浜城を手放すことになり、更にはお市の方が勝家のもとに嫁ぐことになり、後世語られているように「秀吉の一人勝ち」でもなかったことが窺える。
信長の妹であるお市の方は、やはり重要なシンボルであり、その発言力も無視できなかったのである。

姫路城を拠点とした秀吉は、急遽、山崎の戦いで舞台となった地に山崎城を築いた。
京都や安土城から遠い姫路では、いざというときに心もとないからであり、実際、その懸念はスグにでも炎となって燃え盛りそうであった。
言うまでもなく柴田勝家との対立である。

清須会議から数ヶ月の間、お互いに不満は抱えながらも、表面的に秀吉と勝家との争いは見られなかった。

両者の対立が表面化したのは同年十月のこと。
この月の十五日に京都の大徳寺で信長の葬儀(百カ日法要)が行われた。

この葬儀は七日間をかけて行われる大々的なもので、遺体の無い信長を荼毘に付す代わりとして、秀吉は、香木で木像を2体作らせ、1体を祀り、1体を火葬した。

信長の棺に付き従った参列者は3000人余り。警護の兵は3万人。
そして、このセレモニーの喪主は三法師ではなく、信長の四男で秀吉の養子となっていた秀勝であった。織田信雄織田信孝の出席も無く、もちろん勝家の参加もない。

要は、秀吉が、この葬儀を取り仕切り、自身が織田家中の主導的な立場、つまり信長の後継者であるということをアピールしたのである。

秀吉、死せる信長を金箔で踊らせる

無論、これを勝家が面白く思う訳はなく、この後、秀吉が信長の次男・織田信雄(のぶかつ)を三法師が成人するまでの織田当主として擁立し、信長の三男・信孝の後見であった勝家と真っ向から対立。

天正11年(1583年)、ついには賤ヶ岳の戦いへと発展する。

当初は勝家側が優勢であった。
が、岐阜城へ向かうと見せかけて急に踵を返した秀吉の「大返し」による機動戦や、前田利家の戦線離脱などで柴田軍は大敗を喫す。

越前の北ノ庄城(のちの福井城)に撤退した勝家は、結婚したばかりの正室・お市の方と共に自害した。浅井長政の小谷城陥落に続き、このとき再び救出された浅井3姉妹の長姉茶々が、のちに秀吉第一の側室となるのはもはや抗えない運命だったのかもしれない。

その後、岐阜城主だった信孝は、尾張知多の大御堂寺(野間大坊)にて自刃に追い込まれた。
ちなみにこの野間大坊(愛知県美浜町)は、平安時代の「平治の乱」で源義朝(頼朝の父)が殺された地であり、信孝は自ら腹を切ると、秀吉相手に凄まじい怨恨の辞世を残している。

「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」

切腹のルールと現実~もし一人きりで実行したら? 想像を絶する地獄の苦しみで中々死ねず

 

徳川家康を相手に「小牧長久手の戦い」

織田信雄を当主に祭り上げ、実質的に織田家を牛耳った秀吉は天正11年(1583年)、大坂石山本願寺の跡地に絢爛豪華な大坂城の建築をはじめた。
※黒田勘兵衛を責任者とした同城の工事は6万人を動員し、約15年の歳月を経て完成にいたる。

そして天正12年、信雄との仲が悪化すると、にわかに浮かび上がってきたのが徳川家康だった。
本能寺の変で命からがら浜松へ引き返していた家康は、信長の敵討ちを秀吉に先を越され、急に膨張していく秀吉の権力に何らかの手を打たねばならない状況であった。
そこで、反秀吉の動きを見せた織田信雄と手を組み、兵を挙げるのであった。

この対立は諸将を巻き込み、尾張北部を舞台とした「小牧・長久手の戦い」へと続いていく。
1584年3月、織田陣営だった池田恒興(岐阜城主)と森可成(美濃・金山城主)の秀吉寝返りにより、美濃に面した犬山城(愛知県犬山市)を発端にして合戦は始まった。

秀吉軍10万。対する織田・徳川連合軍は3万。
圧倒的な兵力差だが、結束の固い徳川軍の士気は低くない。

小牧山城に立て籠もる織田・徳川軍に対して、秀吉は、楽田城を前線基地に、付け城を多数築城、小牧山城を包囲した。
しかし、かつての三木城や鳥取城、高松城のような完全な包囲はできず、戦況に痺れを切らした秀吉は、三河急襲作戦を発動する。

この急襲作戦、かつては「羽黒の戦い(犬山城占拠の局地戦で森隊は徳川の急襲を受ける)」で敗北した池田恒興と森長可が汚名返上のため、しぶる秀吉を押し切ったアイデアとされていたが、実際は秀吉が主導したことが判明。
結局、秀吉のおいの羽柴秀次(ひでつぐ)を大将とする三河中入り部隊は、4月9日、長久手において挟撃され、森長可・池田恒興はじめ2,500人もの将兵を失い、完敗となった。

局地戦はあったが、精強な徳川相手の無理強いを嫌った秀吉は矛先を変えて、尾張南部の徳川陣営の城や信雄の本拠地・伊勢(三重県)を攻撃し、これに耐えかねた信雄との単独講和にこぎつける。
かくして大義名分のなくなった家康は軍を撤収するしかなかった。

(富永商太・絵)

 

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小田原征伐から奥州仕置へ 天下統一の総仕上げ

足場を固めた秀吉は、いよいよ反秀吉勢力の各個撃破に乗り出す。

天正13年(1585年)の紀州(和歌山)征伐を皮切りに、同年には長宗我部を降伏させ、四国も傘下に。
最強のライバル・家康も、天正14年の正月に信雄を通じて和睦に至る。

が、臣従を意味する上洛を家康が拒否し続けたため、同年9月、秀吉はウルトラ技を繰り出した。

実母・大政所を三河に下向させたのである。
ことここにいたり秀吉の政治力・外交術に負けた家康は10月になってようやく浜松を出発し、同月26日、大坂城で対面した。

これにて秀吉の天下人としての座は、ほぼ確定したのである。

勢力拡大と連動するように官位も上がった。
天正12年に従三位権大納言となると、天正13年には正二位内大臣に叙任される。正二位は信長と並ぶ官位である。
実は、右大臣の就任も打診されていたが、信長が前右大臣の地位で本能寺で斃れたことからこれを避けたという。

四国攻めの最中には関白相論(二条昭実と近衛信尹の関白をめぐる争い)で漁夫の利を得て、藤原氏である近衛家の養子となり関白に就任する。
関白就任は、家康を屈服させる大義ともなった。

そして天正14年、秀吉は正親町天皇から豊臣の姓を賜り、太政大臣に就任、豊臣政権を樹立する。

この時点で秀吉に従っていない大勢力は、九州の島津氏、関東の北条氏、東北の伊達氏ら、地方の諸大名である。
伊達政宗と並ぶ東北の雄・最上義光は、早くから中央に誼を通じており、伊達家とは異なる動きをしていた

九州で勢力を伸ばしていた薩摩(鹿児島)の島津義久は、豊後(大分)の大友宗麟と領地を争っていた。
局地戦では立花宗茂が奮闘するなどの動きを見せていた大友であったが、ついに劣勢へと追い込まれると宗麟は秀吉に助けを求め、秀吉も好機とばかりにこれを受諾。朝廷権威を背景として島津義久に停戦命令(後の惣無事令、大名同士の私的な領土争いを禁じた命令)を発令するのであった。

しかし、島津義久はこれを無視。
仙石秀久長宗我部元親を相手にした「戸次川の戦い」で鮮やかに勝利を飾るも、結局は衆寡敵せず。20万にも及ぶ秀吉の大軍に抗しきれず、あえなく降伏することとなる。

なお、豊臣政権下での島津家は、義久の弟・島津義弘の覚えがよく、その義弘が関が原の戦いですったもんだがあり、後に「島津の退き口」へと繋がるのであるから、歴史とは興味深い。

九州平定後、秀吉は関東と奥羽の諸大名に向けて惣無事令を発令した。
要は「勝手にケンカしちゃダメ。違反したら潰すよ」という趣旨のものであり、未だ完全なる支配下には及ばない東国の武将たちにとっては「何を突然?」というほかない内容。
とはいえ、秀吉の権力が絶大なものであることは絶対であるし、伊達政宗などは、いつ傘下に降るか降るか……、とタイミングを計っていたとされる(少し遅れて危うく首を斬られそうに)。

そこで先を見誤ったのが北条だった。
同家は、豊臣方である真田との領地争いを抱えており、惣無事令が発令された後に真田方の城を強奪。まさに秀吉へとケンカを売ったようなカタチとなり、格好の口実を与えてしまうのだった。

この機を見逃す秀吉ではない。
惣無事令違反をただすための兵を挙げ、瞬く間に20万の大軍で小田原城を包囲。わずか3ヶ月後に降伏させ、小田原征伐を完了させるのである。
この小田原陣中に伊達政宗ら奥羽の大名も参陣しており、小田原落城後の奥州仕置を以て秀吉の天下統一は完了した(1590年)。

イラスト・富永商太

あくまで後年からの評であるが、この頃が天下人・秀吉としてのピークだったのではなかろうか。

彼がこのころ行った政策として、
・京都に「聚楽第」の築城(大坂城は私的な城)
・バテレン追放令
刀狩令
などがあり、更には信長の姪・茶々(淀殿)を側室にしている。
関白の公的な城である聚楽第は、間もなく廃城となり、代わって伏見城を建築。大坂城に水運で直結させた。

そして天正17年(1589年)には、秀吉と淀殿の間に待望の長男・鶴松が生まれ、いったんは後継者としている(後に幼くして死亡し、その弟・秀頼が豊臣の跡を継ぐ)。
ちなみに秀吉は、おねをはじめ多数の妻を持ったが、子供が生まれたのは淀殿のみという説が有力。つまりは女性側ではなく、秀吉の生殖機能に問題があったと推測される。
詳細は以下の記事をご覧いただきたい。

豊臣秀頼は秀吉の実子ではなかった!? 天下人に降りかかった衝撃スキャンダル!




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小田原征伐をスッキリ解説! 北条家が強気でいられた小田原城はどんだけ強かった?

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