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【豊臣秀吉】
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家康を相手に「小牧長久手」
織田信雄を当主に祭り上げ、実質的に織田家を牛耳った秀吉は天正11年(1583年)、大坂石山本願寺の跡地に絢爛豪華な大坂城の建築をはじめた。
※黒田勘兵衛を責任者とした同城の工事は6万人を動員し、約15年の歳月を経て完成にいたる。
そして天正12年、信雄との仲が悪化すると、にわかに浮かび上がってきたのが徳川家康だった。
本能寺の変で命からがら浜松へ引き返していた徳川家康は、信長の敵討ちを秀吉に先を越され、急に膨張していく秀吉の権力に何らかの手を打たねばならない状況であった。
そこで、反秀吉の動きを見せた織田信雄と手を組み、兵を挙げるのであった。
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この対立は諸将を巻き込み、尾張北部を舞台とした【小牧・長久手の戦い】へと続いていく。
1584年3月、織田陣営だった二人の寝返りによって合戦は始まった。
二人とは、池田恒興(岐阜城主)と森長可(美濃・金山城主)であり、キッカケとなったのは美濃に面した犬山城(愛知県犬山市)。
秀吉軍10万。
対する織田・徳川連合軍は3万。
圧倒的な兵力差だが、結束の固い徳川軍の士気は低くない。
小牧山城に立て籠もる織田・徳川軍に対して、秀吉は、楽田城を前線基地に、付け城を多数築城、小牧山城を包囲した。
しかし、かつての三木城や鳥取城、高松城のような完全な包囲はできず、戦況に痺れを切らした秀吉は、三河急襲作戦を発動する。
この急襲作戦、かつては「羽黒の戦い(犬山城占拠の局地戦で森隊は徳川の急襲を受ける)」で敗北した池田恒興と森長可が汚名返上のため、しぶる秀吉を押し切ったアイデアとされていたが、実際は秀吉が主導したことが判明。
結局、秀吉のおいの羽柴秀次(ひでつぐ)を大将とする三河中入り部隊は、4月9日、長久手において挟撃され、森長可・池田恒興はじめ2,500人もの将兵を失い、完敗となった。
局地戦はあったが、精強な徳川相手の無理強いを嫌った秀吉は矛先を変えて、尾張南部の徳川陣営の城や信雄の本拠地・伊勢(三重県)を攻撃し、これに耐えかねた信雄との単独講和にこぎつける。
かくして大義名分のなくなった家康は軍を撤収するしかなかった。
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いよいよ天下人へ
足場を固めた秀吉は、いよいよ反秀吉勢力の各個撃破に乗り出す。
天正13年(1585年)の【紀州征伐(和歌山)】を皮切りに、同年には長宗我部を降伏させ、四国も傘下に。
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最強のライバル・家康も、天正14年の正月に信雄を通じて和睦に至る。
が、臣従を意味する上洛を家康が拒否し続けたため、同年9月、秀吉はウルトラ技を繰り出した。
実母・大政所を三河に下向させたのである。
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ことここにいたり秀吉の政治力・外交術に負けた家康は10月になってようやく浜松を出発し、同月26日、大坂城で対面した。
これにて秀吉の天下人としての座は、ほぼ確定したのである。
勢力拡大と連動するように官位も上がった。
天正12年に従三位権大納言となると、天正13年には正二位内大臣に叙任される。正二位は信長と並ぶ官位である。
実は、右大臣の就任も打診されていたが、信長が前右大臣の地位で本能寺で斃れたことからこれを避けたという。
四国攻めの最中には関白相論(二条昭実と近衛信尹の関白をめぐる争い)で漁夫の利を得て、藤原氏である近衛家の養子となり関白に就任する。
関白就任は、家康を屈服させる大義ともなった。
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そして天正14年、秀吉は正親町天皇から豊臣の姓を賜り、太政大臣に就任、豊臣政権を樹立する。
この時点で秀吉に従っていない大勢力は、九州の島津氏、関東の北条氏、東北の伊達氏ら、地方の諸大名である。
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九州で勢力を伸ばしていた薩摩(鹿児島)の島津義久は、豊後(大分)の大友宗麟と領地を争っていた。
局地戦では立花宗茂が奮闘するなどの動きを見せていた大友であったが、ついに劣勢へと追い込まれると宗麟は秀吉に助けを求め、秀吉も好機とばかりにこれを受諾。
朝廷権威を背景として島津義久に停戦命令(後の惣無事令、大名同士の私的な領土争いを禁じた命令)を発令するのであった。
しかし、島津義久はこれを無視。
仙石秀久や長宗我部元親を相手にした【戸次川の戦い】で鮮やかに勝利を飾るも、結局は衆寡敵せず。20万にも及ぶ秀吉の大軍に抗しきれず、あえなく降伏することとなる。
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なお、豊臣政権下での島津家は、義久の弟・島津義弘の覚えがよく、その義弘が関が原の戦いですったもんだがあり、後に【島津の退き口】へと繋がるのであるから、歴史とは興味深い。
九州平定後、秀吉は関東と奥羽の諸大名に向けて惣無事令を発令した。
要は「勝手にケンカしちゃダメ。違反したら潰すよ」という趣旨のものであり、未だ完全なる支配下には及ばない東国の武将たちにとっては「何を突然?」というほかない内容。
とはいえ、秀吉の権力が絶大なものであることは絶対であるし、伊達政宗などは、いつ傘下に降るか降るか……、とタイミングを計っていたとされる(少し遅れて危うく首を斬られそうに)。
そこで先を見誤ったのが北条だった。
同家は、豊臣方である真田との領地争いを抱えており、惣無事令が発令された後に真田方の城を強奪。まさに秀吉へとケンカを売ったようなカタチとなり、格好の口実を与えてしまうのだった。
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この機を見逃す秀吉ではない。
惣無事令違反をただすための兵を挙げ、瞬く間に20万の大軍で小田原城を包囲。
わずか3ヶ月後に降伏させ、小田原征伐を完了させるのである。
この小田原陣中に伊達政宗ら奥羽の大名も参陣しており、小田原落城後の奥州仕置を以て秀吉の天下統一は完了した(1590年)。
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あくまで後年からの評であるが、この頃が天下人・秀吉としてのピークだったのではなかろうか。
彼がこのころ行った政策として、
・京都に「聚楽第」の築城(大坂城は私的な城)
・バテレン追放令
・刀狩令
などがあり、更には信長の姪・茶々(淀殿)を側室にしている。
関白の公的な城である聚楽第は、間もなく廃城となり、代わって伏見城を建築。大坂城に水運で直結させた。
そして天正17年(1589年)には、秀吉と淀殿の間に待望の長男・鶴松が生まれ、いったんは後継者としている(後に幼くして死亡し、その弟・秀頼が豊臣の跡を継ぐ)。
ちなみに秀吉は、おねをはじめ多数の妻を持ったが、子供が生まれたのは淀殿のみという説が有力。
つまりは女性側ではなく、秀吉の生殖機能に問題があったと推測される。
詳細は以下の記事をご覧いただきたい。
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朝鮮出兵と秀次自害
天正19年(1591年)、秀吉を支えて来た弟の秀長が亡くなった。
更には後継者に指名していた鶴松も、相次いで病死。その落ち込みは推して知るべし、秀吉は姉の子である秀次を養子に迎え、家督を相続させる予定として関白を譲る。
関白を譲った人のことを「太閤」と呼ぶことから、秀吉は太閤と呼ばれることになった。
秀吉の政治力・外交力からキレが失われていったのもこうした不幸が原因だったのだろうか。
同年、それまで重用していた茶人・千利休を自害させると、8月には【唐入り】を表明、肥前国に出兵拠点となる名護屋城の築城を開始する。
そして翌文禄元年(1592年)、明と朝鮮の征服を目的に16万もの軍勢を朝鮮へ出兵させた(文禄の役)。
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朝鮮出兵の序盤は、秀吉軍が朝鮮軍を圧倒した。
しかし、明からの援軍が送られてくると、たちまち戦況は膠着、文禄2年なって明との講和交渉が開始される。
朝鮮出兵は、兵役を課せられた西国の大名を疲弊させ、豊臣政権の基盤を弱める結果となった。
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そしてこの年、豊臣政権の今後に響く出来事が同時に起こる。
茶々(淀殿)との間に豊臣秀頼が生まれたのだ。
これで困ったのが甥の豊臣秀次である。
豊臣秀次はなぜ自害へ追い込まれたのか~殺生関白と呼ばれた秀吉の甥その最期
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鶴松の時と異なり、秀吉は既に後継として秀次を関白としていた。
当初は、全国をエリアに分けて「秀次5、秀頼1」と明言するなど、秀次排斥の予定はなかったのである。
しかし、秀次のメンタルが弱かったのであろうか。
秀頼誕生に焦って情緒不安定になると、両者の溝が深まってゆき、結局は「秀次切腹事件」へと繋がってしまう。
同事件の処理が、またマズかった。
秀次の自害に連座して、妻子の殆どが処刑されたのである。
元々少ない秀吉の血縁を更に減らすことになったばかりか、殺された妻子の中には、秀次に嫁いだばかりでこれから顔を合わせようという駒姫(最上義光の娘)もおり、更には伊達政宗なども嫌疑をかけたのだから始末が悪い。
最上も伊達も、秀吉の死後、キッチリと徳川家康になびいている。
東国一の美女が連座で処刑された 駒姫(最上義光娘)の死はあまりに理不尽だ
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そして慶長2年(1597年)、明との和平交渉の決裂を受け、再び14万の兵を朝鮮に出兵(慶長の役)。
同時に京都と大坂のキリスト教徒を捕縛し26名を処刑した。
慶長3年(1598年)3月に醍醐の花見を終えた後、5月より病にかかっていた秀吉は日々体調が悪化する中、五大老と一部の五奉行に宛て遺言状を出し、この世を去った。
8月18日、場所は伏見城にて。
死因は明らかではないが、腎不全による尿毒症、脚気、梅毒、明の使者による毒殺と諸説ある。
62歳の波乱に満ちた生涯であった。
辞世の句は、慌ただしく権力の階段をのぼりきった男にしては、どこか儚いロマンの漂うものであった。
「露とおち 露と消えにし 我が身哉 難波のことも 夢のまた夢」
20人はいたと思しき側室と数少ない子供
秀吉の妻としてよく名が上がるのは、貧しい時代から彼を支えた「おね」と、秀吉が50歳を過ぎて側室に迎えた淀殿だろう。
おねと秀吉の間には子はいなかったが、加藤清正や福島正則などの親類縁者を実子のように可愛がり育てた。
「淀」の呼称は、第一子・鶴松を懐妊した際に秀吉が山城・淀城(京都)を産所として与えたことに由来する。
鶴松は2歳で夭折してしまうが、第2子の秀頼は5歳で家督を継ぎ、成人を迎えている。
前述したように秀頼は秀吉の実子でないという説もあるが、真相を知るのは母の淀殿のみであり、秀頼は大阪の陣で自刃、息子の国松は処刑され、娘は仏門に入っている。
いぜれにせよ秀吉の血を直接引いた子孫は居ない。
秀吉は女好きで多くの側室を持った。
生まれと容姿のコンプレックスから身分の高い女性に憧れていたとも思われ、側室の中には、大名の娘も多くいた。信長の娘や、前田利家の娘、淀殿の従姉妹にあたる人物もいる。
ただ、なぜか公家の娘には興味を持っていなかったようだ。
はっきりと記録が残る側室は13人であるが20人程度の妻がいたと考えられる。
長浜城主時代には、妾にあたる南殿との間に一男一女をもうけたともされる話もあるが、両人とも幼いうちになくなっている。
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