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『光る君へ』感想あらすじレビュー第48回「物語の先に」大河史上最も腹黒い主人公だった

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『光る君へ』感想あらすじレビュー第48回「物語の先に」
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赤染衛門の忠誠と物語

赤染衛門が、『栄花物語』の嬉子が亡くなる場面を、倫子に読み聞かせています。

「物語」とは「物を語る」こと。こうして読み聞かせていた当時のことがよくわかります。

袖で目元を覆う倫子に、嬉子様の話はやめておいた方がよいか、と尋ねる赤染衛門。

「そのままでいいわ」

と答える倫子。

赤染衛門は自作が『枕草子』や『源氏の物語』のように広く世に受け入れられるかと不安がっています。

「自信を持ちなさい。見事にやってくれています。あなたは私の誇りだわ」

そう倫子に言われ、微笑む赤染衛門。

これも考えさせられる場面です。

この頃の赤染衛門は、こうして藤原北家に仕えることに生きがいを見出しています。

しかし彼女の子孫の中には、自らの能力が当時の貴族社会で認められずに鬱屈し、坂東まで向かってゆく者が出てくる。

『鎌倉殿の13人』でおなじみの大江広元です。

もしも貴族社会がずっとこの才人の家系を満足させ続けていたら、歴史は違っていたかもしれない。

赤染衛門の満足げな笑みと、出てきたばかりの大江広元が見せていた不敵な顔が重なってきます。

 


年老いた貴公子たち

道長のもとで、同窓会のような宴が開催されています。

行成がめっきり酒に弱くなったと嘆くと、出家姿の公任はもともと行成は弱かったと言い、自分も弱くなったと続けます。

いやいやいや、これも「ここがヘンだよ日本の仏教」ですってば!

公任も、道長も、出家したのに、どうして酒を飲んでいるのか。日本では問題視されませんが、他国の仏僧はおおっぴらに酒を飲みません。

斉信は酒量はそのままでも、かわやが近くなったことが困りごとだとか。陣定の途中に立つのが決まりが悪いそうで、公任からは「出家しろ」と言われてます。

そうすれば体裁など気にしなくてよいからって……本当にこの人たちの出家って、ロハスライフを楽しむためのものですね。

俊賢は皆私よりお若いのに情けない、私はまだまだやると言い出します。

生来体が頑健なのでしょうね。金峯山参拝でもマッチョぶりを見せておりました。

斉信からかわやは近くないのかと問われて、ジェスチャー付きでこう返します。

「まっ…………たく平気でございます!」

ユーモラスですし、所作は威風堂々としているのに、どこか「年寄りの冷や水」感も滲んでいる。トイレの近さに悩むあたりにリアリティがあるんですよね。

 


ちぐさの『源氏物語』論

まひろの家で、乙丸は小さな仏像を彫っています。彼なりの追悼なのでしょう。相思相愛であったきぬの姿が見えなくなりました。

ちぐさという娘が来ていて『源氏物語』を読み上げていました。

菅原孝標女であり『源氏物語』への愛着を自身の著作『更級日記』に記すことになる人物です。

彼女は自分なりの解釈で、光る君の最期が描かれていないことの理由を推察していました。

そして、この作者の狙いは男の欲望を描くことだ!と喝破。だからこそ男たちの心も引きつけたと自論を展開するのです。

「なるほど」

「男たちに好評でなければ、これほど世に広まりませんもの」

マーケティングの構図を解説するちぐさ。

「それと読み手の女たちが、作中の誰かに己を重ね合わせれるよう、さまざまな女を描き出したのでしょう。そのために女たらしの君が次から次へと女の間を渡り歩くことにしたのです。つまり、光る君とは、女を照らし出す光だったのです!」

彼女の解釈を笑いつつ聞いているまひろ。

これは『源氏物語』論考だけでなく、大河ドラマ論にもあてはまると思えます。

『光る君へ』は実に珍妙な作品だと思います。

もっと文学寄りにすべきだという酷評や批判は見ました。歴史学の比重が高すぎて、文学の存在が軽いという指摘です。

それはそうだと思います。

ただ、『源氏物語』が好きで、もともと見ない大河をほぼ初めて見て、このドラマを否定したくなったのだとすれば、そもそも大河ドラマのフォーマットがその人向けではないのではないかとも感じました。

優先順位として、平安文学愛好者よりも、大河ファンが上になることは致し方ないと思います。

近年大河ドラマでは、フォーマット逸脱があまりに過剰であるがゆえに、失敗してしまったと思われるものもあります。

その答えがここにあるように思えます。

何度もしつこく指摘しますが、受信料は給与や進学率と異なり、男女差はありません。それでもどういうわけか大河は男のものにされる。

そういう枠に女性主人公なり、女性の意見や主張を入れるとなると、どうしたって男性に目配りしないといけません。

現時点ですでに「合戦をやれ」「関白が何かよくわからん」というぼやきもあるこの作品です。

文学史比重をあげて、当時の女性や思想だけをふんだんに盛り込んだ『源氏物語』をど真ん中においたドラマにすれば、どうなるか想像はつきます。

そもそも平安中期は初のこと。為政者やその配偶者でもない、クリエイター主役となると極めて珍しい。もとからクリエイター目線に慣れたコア層とは、別の層を意識せねばなりません。

だったらはなから『源氏物語』そのものを映像化しても良い。

しかしあくまでこれは大河ドラマなので、男性向けの目配せをあちこちにしなければならない。

そのしがらみを、この女性が上層部にいるチームが理解していないわけがありません。

男性は「男のものだ」と、やたらとカロリーの高いメニューを生み出したり、男性ライター中心の雑誌を作ったり、女に媚びないことをゴリゴリと押し出しても許されます。

しかし女性が同じことをするとなると、その困難は違ってくる。ましてや大河となればそれこそ金峯山詣り級の難行ですからね。

本作では、そういう難行をやりきった――そんな誇りを感じます。

ちぐさと入れ違いで、今度はききょうがやってきました。

あの娘は何者か?と尋ねるききょう。

市で偶然出会ったとか。書物を落としたのでまひろが拾ったら『源氏の物語』だった。それにまひろが興味を示したら遊びに来て、読み聞かせてくれるのだとか。

「なんたることでございましょう。私こそが作者だとおっしゃらないの?」

「言わない方が面白うございましょう」

驚くききょうと、どこか邪悪な、諸葛孔明じみた笑みを見せるまひろ。

「相変わらず物好きなお方」

ききょうは呆れていますが、まひろの気持ちはわかります。

私もなるべく自分の仕事は他者に明かさず、「歴史は学校で教科書読んだくらいしか知りません。大河ドラマを見ているなんて素晴らしいなあ」と流す方が気楽です。

どうせ知名度低いから気づかれませんし、明かしたところでどうせ読まれない。

そして一番興味深いのは、目の前にいるのが筆者だと気づかず、

「あの大河について書いているクズ!」

と、相手が言い出した時。

人は、誰かに反論する、何かを批判する時が最も能弁になります。いきいきと私の悪口を言っている人は本当に楽しそうで、彼らにその喜びを提供できるなら私はそれをよしとします。

理由と根拠のある罵倒ならば、ありがたい諫言と思ってメモでもしておく。

ただの言いがかりならば、それはそれで観察記録として胸に残す。

そういうコミュニケーションって、本当に人生を豊かにしてくれますよね。人と人との交流って素敵なものです。

 

二人の才女、己の功を語り合う

ききょうとまひろは膝を気遣いつつ、話し始めます。

偉いのはききょうでしょう。『紫式部日記』を読んだかどうかは定かではないものの、まひろはききょう相手に割と手厳しいことばかりをしてきました。

まひろは自身を矯正できない。よって合わせているのはききょうです。

そして彼女はもう達観しているようです。道長が左大臣時代だったころと比べれば、今は夢のようだとしみじみ。

さらには「何か書かないのか?」と問いかけると、まひろからは「書かない」という返事がかえってきました。

その上で、ききょうは?というと、亡き皇后様のような存在がおらず、意欲が湧いてこないようです。思えば定子に捧げた『枕草子』でした。

ききょうは『枕草子』と『源氏の物語』が一条帝の心を揺り動かし、政さえも動かしたと不敵に言います。

「まひろ様も私も、大したことを成し遂げたと思いません?」

「ええ、米や水のように、書物も人になくてはならないものです」

「まことに!」

「でもこのような自慢話は、誰かに聞かれたら一大事でございますわ」

そう笑いあう二人。

確かに彼女たちは筆を手にして、玉座のゲームに参戦していました。そしてここのまひろの言葉は、コロナ禍のことを思い出すと深く響きます。

あの頃はエンタメが不要だとされたけれど、果たしてそうでしょうか。これもテレビドラマを作る側の自負のようにも思えます。

そう笑いあう二人。

空になった鳥籠が映ります。

本作は紛れもなくフェミニズムはテーマとしてあると思います。

ただ、上中級貴族層女性、さらに聡明で才能ある、クリエイター目線のフェミニズムといえばそうなります。

それに該当しない女性からすれば、これのどこがフェミニズムなのかとむしろ反発されるかもしれません。

こういう上層知的エリートにばかりに目配りしたフェミニズムは「リーン・イン・フェミニズム」と呼ばれます。

フェイスブック社COOのシェリル・サンドバーグ著『リーン・イン』に由来する呼び方です。

『虎に翼』も「リーン・イン・フェミニズムではないか」と議論されたものです。

この現象はなぜ起きるかというと、フェミニズムを扱う作品数が少ないことが一因としてあげられます。

選択肢が多ければ、上級エリート、中級層、肉体労働者、専業主婦など、多くの階層を網羅する作品ができ、棲み分けができる。

ただ、これは作り手側も意識していないわけではないと思います。

同じチームの朝の連続テレビ小説『スカーレット』は、低学歴貧困層出身女性目線のフェミニズム作品でした。

今年放映されたNHKドラマでいえば『団地のふたり』も、庶民的な女性目線のフェミニズム作品です。

しかしそもそも日本はフェミニズムを扱うことすらまだ少ないので、今後の課題と言えるでしょう。

それに大河ドラマという点でいえば、男性主役のものにせよ、今まで為政者や武士に偏りすぎでしたよね。

もっと間口を広げることが大切ではないでしょうか。

売れ筋路線ばかりを狙うのはむしろ危うい。

多様性を大切にするということは、綺麗事でもなんでもなく、生存戦略として有効なのです。

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