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西南戦争錦絵・熊本城の戦い/国立国会図書館蔵

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日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた 明治・大正・昭和時代

不平士族の反乱マトメ(佐賀の乱・神風連の乱・秋月の乱・萩の乱・西南戦争)

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いつの時代も、変化に強い人となかなかついていけない人がいるものです。

明治時代においては、その違いが顕著に現れまして。
良くも悪くも歴史に残ったのが、いわゆる「不平士族」と呼ばれる人々です。

おそらく大河ドラマ「西郷どん」でも後半の数ヶ月に渡って扱われるでしょう。
なにせ、西郷隆盛の最期・西南戦争(1877年)に大きく関わるものであり、それまで主なところで以下の内乱がありました。

佐賀の乱(1874年)
神風連の乱(1876年)
秋月の乱(1876年)
萩の乱(1876年)

1877年の西南戦争に至るまで、立て続けに色々と起きていることがご理解いただけるでしょう。
しかしそれだけに、何やらゴチャゴチャとしてしまいがち。

そこで今回はこの不平士族の反乱士族反乱)をわかりやすくマトメてみたいと思います。

※佐賀の乱と西南戦争につきましては別記事にても詳細を記しております

【TOP画像】西南戦争錦絵・熊本城の戦い/国立国会図書館蔵

 

征韓論を巡って明治六年の政変が起きた

明治維新後、主に廃藩置県(1871年)と徴兵令(1873年)によって、ほとんどの士族(武士)は失業することになりました。
中には商売を始めて才覚を表す者もいましたが、政府から給料も出なくなり不満が高まっていきます。

戦国→江戸時代への切り替わりのときも、職を失った浪人をどうするかで散々モメ、大坂の陣で食い詰めた連中が敵対勢力になってしまいました。なのになぜ明治政府は思い切った対策を事前に打てなかったのでしょうか。

職につけなかった士族たちの怒りが爆発したのは【明治六年の政変】がキッカケでした。
【征韓論】を巡る政争によって、西郷隆盛や板垣退助らが下野(中央政府を辞職)したのです。

イラスト・富永商太

征韓論とは、何もスグに朝鮮へ攻め込み併合せよ、ということの論争ではありません。
最終目標としてはそこを目指すのも考えられてましたが、ともかく先ずは「朝鮮半島と欧米、どちらに目を向けていくか」という趣旨であります。

西郷としては、自ら特使として朝鮮に乗り込み、交渉を進め、場合によっては不平の溜まる士族たちを朝鮮攻略に用い、暴発を防ごうとしていました。
これに反対したのが大久保利通岩倉具視などを始めとする一派。
彼らは西洋諸国を見回り、とにかく国力増強の必要性を痛感しておりました。

結果、征韓論者たちが敗北し、西郷も多くの士族たちも地元へ帰ります。

確かに、それまでにも新政府の洋化政策に反発した士族の小さな反乱はありました。
が、この明治六年の政変を機に、一気に拡大するのでした。

 

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◆佐賀の乱

士族たちも「征韓軍が組織されれば、自分たちを使ってくれるに違いない。そうすれば戦功を立てて、収入を得ることもできる」と期待していたのでしょう。
それがおじゃんになったのだから、みんな一斉に堪忍袋の緒が切れてもおかしくありません。

さらに、西郷をはじめとした有名人たちが地元へ戻ってきたことで、良い旗頭になってしまいます。

まず明治七年に佐賀の乱が起きました。
これについては少々経緯がややこしいので、詳しく知りたい方は過去記事を御覧ください。

佐賀の乱はなぜ起きた? そして、どのように鎮圧された? 江藤新平と大久保利通の思惑

さらに、明治九年には廃刀令まで発布されます。
これが出された年の10月には、神風連の乱・秋月の乱・萩の乱と不平士族の大規模な反乱が相次ぐようになりました。

一つずつご紹介していきましょう。

 

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◆神風連の乱

熊本にあった「敬神党」という神道系の新興宗教が中心の反乱です。
そのため「敬神党の乱」ともいいます。

敬神党は幕末の尊皇攘夷運動にも参加していたのですが、神道を重んじるゆえに明治政府の西洋化主義に反対していました。
そして廃刀令によって武士としての誇りと日本人らしさを奪われると感じ、武力行使に出たのです。

敬神党は割と広い視野を持っていて、後述する秋月の乱や萩の乱に関わった士族たちと盟約を結び、連携して10月下旬に蜂起する計画を立てていました。
しかしその計画が、仲間内から県庁にバレ、熊本鎮台攻略を急ぎます。

一時は鎮台の司令官や熊本県令(知事みたいなもの)の殺害までやってのけたのですが、その翌日に鎮台の兵が体制を整え、撃退されてしまいました。
神風連の乱の参加者は170人弱いたのですが、半分近くは自刃し、48人が死刑を含めた処罰を下され、29人が釈放されました。

なんと、逃亡して西南戦争に参加した者も4人いたといいます。

神風連の乱の錦絵/wikipediaより引用

 

◆秋月の乱

こちらは旧秋月藩士(約450人)による反乱です。

秋月藩は上杉鷹山の実家の藩であり、名君を多く輩出した藩でもあります。
当初、彼らは前述「佐賀の乱」に呼応しようとしていたのですが、準備が間に合わず断念していました。

そこに上記の敬神党から「一緒にやろうぜ」(超訳)という誘いがあったので、一時はためらいつつも、最終的には賛同します。
近所の旧小倉藩士にも話を持ちかけましたが、こちらの賛同は得られなかったそうです。

しかし、gdgdしているうちに小倉鎮台から奇襲を受け、旧秋月藩士たちの間でも仲間割れが起き、自害する者まで出てしまいました。
一時は反抗したものの、政府軍が即座にやってきて11月頭には完全に鎮圧されてしまっています。

『西南鎮静録 續編上』より秋月の乱/wikipediaより引用

 

◆萩の乱

旧長州藩士による反乱で、こちらも332名という大所帯でした。

首領に担がれたのは、前原一誠(いっせい)という人です。
彼は大村益次郎の後任として兵部大輔(現代でいえば防衛副大臣みたいな役職)を務めていたのですが、木戸孝允と奇兵隊反乱の処分を巡って対立し、長州に帰って隠棲していました。

佐賀の乱が起きたときに県令から
「佐賀の反乱軍が長州に入ってきたら困るから、お前ちょっと仲間を集めてなんとかしろ」(超訳)
と言われたことがあり、その時点では危険人物とは思われていなかったようです。

このときは3000人もの義勇兵が集まったとか。
それほど地元での人望があったということになりますね。

また、前原は「征韓論に賛成」「地租改正と士族の解体に反対」という考えでした。
まとめると「長州には明治政府の方針に反対する人々が3000人いた」ということになります。

これらを危惧した木戸は、前原に元老院議官(明治初期にあったお偉いさん役の一つ)への就任を勧めて有事を防ごうとしましたが、断られてしまいます。
そのため木戸は長州にスパイを送り、前原の動きを監視させていました。

この時点では同士を集めて多少の談判はしていたらしいですが、前原たちは具体的な行動には至っていません。

しかし、神風連の乱を受けて挙兵を決意します。

まず山口県庁を襲撃しようとしたものの、政府軍に阻まれてうまく行きませんでした。
敬神党や秋月の乱と比べて、前原以下がまとまっていて士気の高い一団だったからか、政府軍は鎮圧まで少々手こずっており、死傷者77名を出しています。

前原たちは石見へ脱出しようとしたところで捕縛され鎮圧されました。

萩の乱の錦絵/wikipediaより引用

 

残るは西郷しかいない!

かくして士族反乱は全て
「事前の根回し不足」
「内部からの情報漏洩」
などによって失敗していました。

行動していない人たちも含めて、不平士族たちは「人望と実績と軍事指揮能力がある人物が、自分たちを率いて何とかしてくれないだろうか」と思っていたことでしょう。

そしてその条件を全て満たすのが、西郷隆盛でした。

明治六年の政変後、西郷隆盛は政界を離れて鹿児島で隠居生活を送っていました。
西郷のお供をして鹿児島に帰ってきていた数人が士族のための私学校を作り、反感をなだめていましたが、それは同時に「武道の心得のある人間の集団」を作ることにもなります。

士族への風当たりが強くなる中で、鹿児島の士族もまた政府への反感をつのらせていきました。
地租改正に反対する農民たちもまた、各地で一揆を起こしており、明治政府の足元は危ういように見えていたでしょう。

そのため、敬神党や旧秋月藩士・旧長州藩士なども、維新の功労者である西郷と地元・鹿児島の決起を期待していました。

当然ながら明治政府も警戒しており、スパイを送っています。
西郷は元々実力行使には反対だったので、それでも決起しようとは思っていなかったのですが……。

 

◆西南戦争

しかし、明治十年1月、明治政府のほうが決起の火種になるようなことをしてしまいます。

鹿児島の草牟田陸軍火薬庫にあった弾薬を、県庁に連絡せず回収しようとしたのです。

これは「鹿児島の奴らは信用できないから、こんな危ないもの預けておけない」と言うも同然。
結果、私学校の士族たちを激高させ、彼らのうちの一部が陸軍や海軍の弾薬を奪いにかかります。

さらに、政府から送られたスパイが見つかったこと、さらに西郷暗殺計画が立てられていたことが発覚し、士族たちは武力行使を決めてしまいました。

こうなっては西郷も止められず、旗頭となって反乱を指揮する覚悟を決めました。
かねてから西郷らの決起を期待していた九州各地の不平士族も参加し、反乱軍はかなりの規模に拡大します。

事態を重く見た明治政府は、総督を有栖川宮熾仁親王とする征討軍を組織。陸海軍に警察まで加えて、6万もの大軍でした。

これに対し、西郷軍は合計3万。
「何だ、倍も兵数の差があるんなら政府軍圧勝じゃん」と思った方もいるかもしれませんね。

しかし、「“西郷一人で”政府軍の半分にも及ぶ兵を集められる影響力があった」と考えれば、決して楽観視できない事態です。
もしここで政府軍が西郷軍に敗れるようなことがあれば、その影響は全国に及び、せっかく歩み始めた近代国家への道が崩れ落ちてしまいます。

こうして始まった西南戦争。
熊本城攻防や田原坂の戦いなどの激戦を経て、西郷軍は次第に南へ追い詰められていきました。

西郷が自害して戦争が終わったのは、勃発から半年以上経った9月のことです。

政府軍の被害も甚大で、死者6800人、戦傷者9200人くらいだったといわれています。
「半数の敵軍相手に、自軍の1/4もの死傷者が出た」というのはとんでもない割合でしょう。

もしも西南戦争で、西郷軍に加わっていたような士気の高い兵を取り込めていたら、明治政府にとっても大きなメリットだったかもしれません。

一方で、西南戦争での政府軍勝利は「政府が徴兵によって作った軍が、本職であるはずの武士に勝てる」と証明することにもなりました。
そのため、各地の士族たちも「西郷がやってダメだったんだから、もう俺たちがやっても無駄だ」と考えたようです。

西南戦争以降、士族による反乱は起こりませんでした。

またひとつ課題を乗り越えた(踏み潰した)明治政府は、いよいよ中央集権化を確立させていくのでした。

長月 七紀・記

※西南戦争のより詳しい記事は以下へ

哀しき内乱・西南戦争がスッキリわかる 「視察」が「刺殺」で大久保は号泣した!?

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参考:国史大辞典「不平士族」「神風連の乱」「秋月の乱」「萩の乱」「西南戦争」

 





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