藤原道長

『紫式部日記絵巻』の藤原道長/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安

藤原道長は出世の見込み薄い五男|なのになぜ最強の権力者になれたのか

2024/07/31

「平安時代の代表的な人物は?」と問われたら、おそらく複数名の歴史人物が頭に浮かぶでしょう。

しかし、その中から「一人に絞り込んでください」と言われたら、多くの方が

【藤原道長(966-1027)】

と答えるのではないでしょうか。

2024年大河ドラマ『光る君へ』でも柄本佑さんが演じる主役クラスで、なんつったって摂関政治の代表的存在。

一族から立て続けに三人も入内させて天皇の后にし、さらには国風文化のパトロンとして後世の芸術にも間接的に影響を与えている。

また、彼の子孫は膨大な数に上り、血筋の上でも朝廷や日本中の至るところに残り続けました。

皇族や臣籍降下した源氏や平氏の次に、日本を形成した人物ともいえるでしょう。

しかし当初は、栄華を極めるような出世は見込まれていない、ある意味、ダークホース的な存在だったとも言えます。

『光る君へ』でも注目、藤原道長の人生を振り返ってみましょう。

 


義父「出世の見込みないんだよな」

前述の通り藤原道長は、生まれてからしばらくの間は後世の我々が知っているほど偉くなれる見込みはありませんでした。

父は藤原北家の当主・藤原兼家でしたが、母は道長が十代半ばの頃に他界。

さらに五男という生まれ順だったため、兄たちの影に隠れるしかない立ち位置だったのです。

それでもさすが藤原北家というべきか。

順調に出世を果たし、25歳のときに官職は権大納言(位階はこの段階で正三位)にまでなっています。

※以下は官位に関する解説記事です

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また、このあたりまでに二人の女性と結婚していました。

一人は、正妻の源倫子(みなもとのりんし・鷹司殿)。

宇多源氏の一人・源雅信(みなもとのまさざね)の娘です。

実は、雅信は

「いくら相手が藤原氏でも、五男の道長じゃなぁ(´・ω・`)」(※イメージです)

と乗り気ではありませんでした。

しかし、その妻である藤原穆子(ふじわら の ぼくし/あつこ)がゴリ押しします。

「そんなこといったって、今の皇族には倫子と釣り合う年の方はいないじゃありませんか! 行き遅れるより道長殿に望みをかけなさい!」(※イメージです)

カーチャンつよいっすね。

後述するように、倫子の生んだ娘たちのおかげで道長は出世できたようなものなので、怖いものなしの彼も、さすがに穆子には一生頭が上がらなかったとか。

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もう一人の奥さんも源姓から

もう一人の妻は、源明子(みなもとのあきこ・高松殿)という女性です。

同じ苗字なのでややこしいですが、彼女は醍醐源氏である源高明(みなもと の たかあきら)の娘でした。

やたらと源氏の姓が出てきますね。

この人たち、武士じゃなかったの?なんて疑問を抱かれた方は、臣籍降下の記事をご参照いただければ幸いです。

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源明子との結婚は、道長の姉・詮子(せんし/あきこ)が取り持ったといわれています。

明子の父・高明は【安和の変】で失脚しており、詮子が高明の末娘・明子の後ろ盾になっていたのでした。

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詮子は、他の貴族から

「いくらお上(一条天皇)のご生母だからって、政治に口出しすぎ!」

と思われていたようですが、そういう面倒見のいいところもあったんですね。

安和の変で高明を追い落としたのは藤原北家の人なので、同族である詮子なりの罪滅ぼしだったのかもしれません。

明子には何の責任もないわけですし、道長にしても妻が多くて困ることはない上、側室にするにしても身元がわかっている女性のほうがいいわけですし。

 

長兄・藤原道隆が死亡 右大臣から左大臣へ

話が少しそれますが、平安時代には「女性の意見で後々重要になってる出来事が起きた」というケースがままあります。

薬子の変(810年)については「薬子が糸を引いた」というはっきりした証拠がないけれども名は残されておりますし、源頼朝の命を拾ったのも、平清盛の義母・池禅尼の意見によるものでした。

日本史における女性の立ち位置は、決して低くなかったといえるでしょう。

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藤原氏は比較的どの世代も多産な傾向があり、道長も結婚から程なくして多くの子女に恵まれています。

そして道長29歳のとき、彼の運命とともに日本の歴史を変える出来事がありました。

道長の長兄である藤原道隆が病気で関白を辞し、出家後に亡くなったのです。

一部の仕事は道隆の子・藤原伊周が引き継ぎながら、若年のため、道隆の弟である道兼が関白に就任。しかし、道兼もすぐに病死してしまいます。

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そこで今度は、道長が家を継ぎ、右大臣ののち左大臣に進むのでした。

道兼が亡くなったタイミングがいかにも怪しげな展開ですが、陰謀説などはないようです。

 


この世をば わが世とぞ思ふ 望月の

この後、関白の地位をめぐって、道隆の子である「伊周・隆家兄弟」と道長が激しく対立します。

しかし伊周・隆家兄弟が、お忍びで女性の元に通っていた花山法皇を、恋敵と勘違いして矢で射掛けてしまった――などの政治的ポカをやってしまい、最終的に道長が勝利を収めます。

かくして名実ともに藤原北家の主、そして臣下筆頭になった道長。長女・彰子をときの帝である一条天皇に入内させ、中宮に押し上げました。

さらに、二人の間には敦成親王(後の後一条天皇)が誕生し、道長は外戚としての立場を確立します。

勢いは留まるところを知りません。

次女・妍子を三条天皇、四女・威子を後一条天皇に入内させ、やはり中宮にすると、威子の立后を祝う宴で例の歌が詠まれるワケです。

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

三代続けて帝が娘婿になり、まさにこの世の春を謳歌する道長。その状況、実は必ずしも安泰ではありません。

とくに三条天皇は自分の血を引いておらず、仲も決して良くない。

そんな関係のもとで三条天皇が眼病を患ったことから、しきりに退位を迫ります。

「もう辞めはなれや~」

とプレッシャーを受けた三条天皇は「自分の皇子・敦明親王を次の皇太子にするなら」という条件で退位を了承。

しかし、敦明親王は、身の危険を感じて、自ら皇太子の地位を降りるのでした。

道長はその謝礼に、敦明親王に「小一条院」の称号と送り、明子から生まれた三女・寛子を嫁がせました。

寛子が嫁いだとき既に別の妃がいたため、ありがた迷惑というかなんというか……ゴリ押し的な?

ただし、政治を進める上では、全て自分の都合で勝手に決めたりするのではなく、たとえば利権の温床となる「荘園」についても、藤原氏ばかり儲けよう!というようなこともしていません。

やりすぎて恨まれることは避ける。

その辺のバランス感覚にも優れていたフシがあります。

まぁ綺麗事だけじゃなく、それも朝廷をうまく利用していただけ、とも思えなくはないのですが。

 

摂政・太政大臣にはなれど、関白には就かず

自分の孫である後一条天皇が即位したことにより、道長は摂政に任じられました。

しかし摂政の地位は早々に返上し、太政大臣になっています。

関白にはなっていません。

彼の日記が『御堂関白記』だったり、権力者の代名詞として「関白」のイメージが付いたのでしょう。

関白は成人した天皇の補佐なので、天皇との相性が悪いと、道長のチカラも弱くなります。その点、リスキーな職でありました。

ただ、太政大臣だった期間も長くはありません。

万寿二年~四年(1025~1027年)にかけて、道長は嬉子・妍子・顕信といった子供たちに先立たれており、彼自身も病にかかったことで、仏教への傾倒が強まっていくのです。

自身の官職を長男の藤原頼通に譲ることで、権力の継承を狙ったと考えられます。

そして、官職を辞して出家した翌年(1027年)には亡くなっているため、計画通りというかなんというか……。

死因については不明ながら、それまでに糖尿病にかかっていた可能性は濃厚です。

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あまり注目されないキャラエピソード

さて、道長の足跡を整理してみますと……。

・藤原北家という最高の家柄ながら、一族では恵まれないポジション

・兄二人の急死をきっかけに甥を蹴落とし、後宮に娘を三人も送り込んで家の立場を確立

・自分一人の権力には固執せず、天寿が尽きる前に長男へ引き継ぐ

色々と賛否両論はあるでしょうが、彼を良く捉えれば、颯爽としており、根本的にはデキる人でしょう。

実は、その人となりを見ても、非常に魅力的なエピソードが残されており、世間にあまり知られてないのがもったいないとすら感じます。

「平安時代は衣装やセットにお金がかかりすぎるので映像化しにくい」という噂があります。

その辺が解決できるのなら、ぜひ道長をクローズアップした映像作品を作っていただきたいですね。

大河ドラマ……は、高望みしすぎですかね。

「望月の歌」の影響もあってか、一般的には腹黒イメージも強いですが、決してそれだけの人ではありません。

ここから先は、人間・道長を見て参りましょう。

 

豪胆な性格

道長は若い頃から割と豪胆な性格だったといわれています。

僧侶に人相を見られて「他の兄弟より優れている」と評されたことがありますし、肝が座っていたと思われる逸話も多々あります。

例えば、あるとき花山天皇が「宮中で肝試しをしよう」と言い出したときの話です。

花山天皇/wikipediaより引用

随分ノンキなことですが、花山天皇は政治的事情で出家するときも

「月が明るくて、頭を丸めるのが恥ずかしいな^^;」

と言っていたような方ですので、元々キュートな方だったのでしょう。

このとき、道長の兄である道隆と道兼は、途中、怖じけづいて帰ってきました。

大の大人とはいえ、物の怪や祟りが信じられていた時代のことですから、ムリもないことです。

安倍晴明で知られる陰陽師の存在があったことからして、バカにできないのはご理解いただけるでしょうか。

しかし道長は、花山天皇に指定された通り、大極殿(だいごくでん・皇居のお役所エリアである朝堂院、その一番奥にある儀式場)へ出向き、高御座の柱を削って帰ってきたのだとか。

道長が武術に優れていたという話はありませんので、これはやはり肝が相当に座っていたのでしょう。

 

「面を踏んでやりましょう^^」

もう一つは、藤原公任(きんとう)と道長に関する話です。

公任は、道長たちとは遠い親戚といった感じの関係なのですが、和歌・漢詩・管弦・書道など、当時重視されていた芸術の道を全て得意としており、政治の才も決して低くはない万能型の人物でした。

ついでにいうと、母が皇族なので血筋的にも最上級です。

藤原公任/wikipediaより引用

当然、世間の公任に対する評判は、非常に高い。

それをつくづく感じていた道長の父・兼家は、あるとき「わが子らは、公任の影さえ踏めないだろう」と口惜しがりました。

これまた時代が前後しますが、斎藤 道三が織田 信長に会った後「ワシの子供たちは信長の門前に馬を繋ぐだろう」(=うちのガキどもは信長の足元にも及ばない)と評した……という話と似ていますね。

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しかし、兼家の場合は、当の息子たちの前で言ったというのですから、どぎつい皮肉というもの。

道隆や道兼も同感だったらしく、反論できずにいました。

そこでただ一人、道長だけが「陰なんて言わず、面を踏んでやりましょう^^」と言い返したそうです

わざわざ「面」というあたりが実に自信家というか、手段を選ばない感じがしますね。公任もすごい自信家なので、ある意味、似た者同士で良きライバルというか……。

道長と公任は同じ康保三年(966年)生まれなので、そういう意味でもライバル視していたのかもしれません。

いつの時代も、同じ年頃の人には親近感や敵愾心を持ちやすいものですし。

 

ライバル公任に送った歌は応援歌?

とはいえ、道長と公任の関係は決して悪くありませんでした。

寛弘九年(1012年)4月、公任の長女と道長の五男が結婚していますし、治安三年(1023年)から翌年にかけて公任が娘を立て続けに亡くしたこと、当時就いていた権大納言以上への出世が見込めないことなどで気落ちし、京を離れて出家・隠棲したとき、道長から次のような歌と僧衣が送られたといわれています。

谷の戸を とぢやはてつる 鶯の 待つに音せで 春の暮れぬる

【意訳】鶯が鳴くのを楽しみに待っていたのに、谷に引きこもったまま今年の春は過ぎてしまったよ

この「鶯」は、もちろん公任を喩えて言ったものです。

その辺を併せて考えると「今年の春はもう終わってしまうけれど、貴方はきっと都へ帰ってきてくれると思っているよ」という感じでしょうか。

道長の娘・彰子に紫式部が仕えており、道長が『源氏物語』の続きを読みたがっていたという話もあることから、「道長は光源氏のモデルの一人だ」とされることがあります。

おそらくは栄華のほどに着目する人が多かったのでしょうけれども、このエピソードからすると、光源氏の親友・頭の中将あたりのほうが近いようにも思えます。

頭の中将も自信家で女性遍歴が多く、名家出身、さらに作中でいうところの「左の藤原家」の当主です。

また、光源氏が須磨に謹慎していた頃、直接会いに行くほどの友情を示したのは彼だけでした。

「仕事がデキて自信家で抜け目もないけれど、友情を決して忘れない」……なんて、実に魅力的な人物ではありませんか。

おそらくは権力者のイメージが強すぎるのと、望月の歌以外の道長の和歌がほとんど知られていないために、彼の人格にはスポットが当たらないのでしょうね。

最近は歴史に関する名著が多々出ていますので、道長の素顔をたっぷり記した本が出てくることを期待しましょう。


参考文献

国史大辞典「藤原道長」
藤原公任/wikipedia
やまとうた(→link

※藤原不比等の息子たちによって興された藤原四家(ふじわらしけ)
・藤原武智麻呂→藤原南家 ※藤原仲麻呂(恵美押勝)
・藤原房前→藤原北家 ※藤原良房・藤原時平・藤原道長
・藤原宇合→藤原式家 ※藤原百川・藤原種継・藤原薬子
・藤原麻呂→藤原京家 ※マイナー・藤原浜成

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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