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紫式部日記絵巻の藤原道長/wikipediaより引用

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藤原道長62年の生涯をスッキリ解説!実は出世の見込みなく義母に頭上がらず!?

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平安時代の代表的な人物は?」と聞かれたら、おそらく票が割れるでしょう。
時代の長さもさることながら、人によって強く印象に残る出来事は異なるものです。

しかし、
「一人に絞り込んでください」
と言われたら、だいたいの人は【藤原道長(966-1027)】と答えるのではないでしょうか。

なんつったって摂関政治の代表的存在ですよね。
一族から立て続けに三人も入内させて天皇の后にし、さらには国風文化のパトロンとして後世の芸術にも間接的に影響を与えています。

また、彼の子孫は膨大な数に上り、血筋の上でも朝廷や日本に残り続けました。
皇族や臣籍降下した源氏平氏の次に、日本を形成した人ともいえるでしょう。

ここでは藤原道長の人生を振り返ってみましょう。

 

義父曰く「コイツ、出世の見込みないんだよな」

藤原道長は生まれてからしばらくの間、後世の我々が知っているほどエラくなれる見込みは、ほとんどありませんでした。

父は藤原北家の当主・兼家でしたが、母は道長が十代半ばの頃に他界。
さらに五男という生まれ順だったため、兄たちの影に隠れるしかない立ち位置だったのです。

それでもさすが藤原北家というべきか、順調に出世を果たし、25歳のときに官職は権大納言(位階はこの段階で正三位)にまでなっています。

なんだかモヤッとする「位階」と「官位」の仕組み 正一位とか従五位とか、どんな意味がある?

また、このあたりまでに二人の女性と結婚していました。

一人は、正妻の源倫子(みなもと の りんし・鷹司殿)
宇多源氏の一人・源雅信(みなもと の まさざね)の娘です。

実は、雅信は
「いくら相手が藤原氏でも、五男の道長じゃなぁ(´・ω・`)」(※イメージです)
と乗り気ではありませんでした。

しかし、その妻である藤原穆子(ふじわら の ぼくし/あつこ)
「そんなこといったって、今の皇族には倫子と釣り合う年の方はいないじゃありませんか! 行き遅れるより道長殿に望みをかけなさい!」(※イメージです)
とゴリ押しして縁談をまとめたそうです。カーチャンつよい。

後述するように、倫子の生んだ娘たちのおかげで道長は出世できたようなものなので、怖いものなしの彼も、さすがに穆子には一生頭が上がらなかったとか。

 

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もう一人の奥さんも源姓から

もう一人の妻は、源明子(みなもと の あきこ・高松殿)という女性です。
同じ苗字なのでややこしいですが、彼女は醍醐源氏である源高明(みなもと の たかあきら)の娘でした。

やたらと源氏の姓が出てきますね。この人たち、武士じゃなかったの?なんて疑問を抱かれた方は、臣籍降下の記事をご参照いただければ幸いです^^

皇位・皇族と密接に関わる「臣籍降下」とは?「姓がある=皇族ではない」の法則

源明子との結婚は、道長の姉・詮子(せんし/あきこ)の取り持ったといわれています。

明子の父・高明は「安和の変」で失脚しており、詮子が高明の末娘・明子の後ろ盾になっていたのでした。

詮子は、他の貴族から
「いくらお上(一条天皇)のご生母だからって、政治に口出しすぎ!」
と思われていたようですが、そういう面倒見のいいところもあったんですね。

安和の変で高明を追い落としたのは藤原北家の人なので、同族である詮子なりの罪滅ぼしだったのかもしれません。

明子には何の責任もないわけですし、道長にしても妻が多くて困ることはない上、側室にするにしても身元がわかっている女性のほうがいいわけですし。

 

長兄・藤原道隆が死亡 右大臣から左大臣へ

話が少しそれますが、平安時代には「女性の意見で後々重要になってる出来事が起きた」というケースがままあります。

薬子の変(810年)については「薬子が糸を引いた」というはっきりした証拠がないけれども名は残されておりますし、源頼朝の命を拾ったのも、平清盛の義母・池禅尼の意見によるものでした。
日本史における女性の立ち位置は、決して低くなかったといえるでしょう。

薬子の変が日本史に与えたインパクトが意外とデカッ!藤原北家の大天下始まる

藤原氏は比較的どの世代も多産な傾向があり、道長も結婚から程なくして多くの子女に恵まれています。
そして道長29歳のとき、彼の運命とともに日本の歴史を変える出来事がありました。

道長の長兄である藤原道隆が病気で関白を辞し、出家後に亡くなったのです。

一部の仕事は道隆の子・藤原伊周が引き継ぎながら、若年のため、道隆の弟である道兼が関白に就任。
しかし、道兼もすぐに病死してしまいます。

そこで今度は、道長が家を継ぎ、右大臣ののち左大臣に進むのでした。

道兼が亡くなったタイミングがいかにも怪しげな展開ですが、陰謀説などはないようです。

※右大臣よりも左大臣のほうが偉いです。さらに太政大臣の方が上位となりますが、こちらは常設の職ではありません。詳しくは以下の記事をご参照くださいm(_ _)m

官職と二官八省がバッチリわかる! 日本史が3倍ぐらい楽しくなる官位の仕組み

 

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この世をば わが世とぞ思ふ 望月の

この後、関白の地位をめぐって、道隆の子である「伊周・隆家兄弟」と道長が激しく対立します。

しかしこの伊周・隆家兄弟が、お忍びで女性の元に通っていた花山法皇を、恋敵と勘違いして矢で射掛けてしまった――などの政治的ポカをやってしまい、最終的に道長が勝利を収めます。

かくして名実ともに藤原北家の主、そして臣下筆頭になった道長。

長女・彰子をときの帝である一条天皇に入内させ、中宮に押し上げました。
さらに、二人の間には敦成親王(後の後一条天皇)が誕生し、道長は外戚としての立場を確立します。

勢いは留まるところを知りません。
次女・妍子を三条天皇、四女・威子を後一条天皇に入内させ、やはり中宮にすると、威子の立后を祝う宴で例の歌が詠まれるワケです。

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

三代続けて帝が娘婿になり、まさにこの世の春を謳歌する道長。
その状況、実は必ずしも安泰ではありません。

とくに三条天皇は自分の血を引いておらず、仲も決して良くない。
そんな関係のもとで三条天皇が眼病を患ったことから、しきりに退位を迫ります。

「もう辞めはなれや~」

とプレッシャーを受けた三条天皇は「自分の皇子・敦明親王を次の皇太子にするなら」という条件で退位を了承。
しかし、敦明親王は、身の危険を感じて、自ら皇太子の地位を降りるのでした。

道長はその謝礼に、敦明親王に「小一条院」の称号と送り、明子から生まれた三女・寛子を嫁がせました。
寛子が嫁いだとき既に別の妃がいたため、ありがた迷惑というかなんというか……ゴリ押し的な?

ただし、政治を進める上では、全て自分の都合で勝手に決めたりするのではなく、たとえば利権の温床となる「荘園」についても、藤原氏ばかり儲けよう!というようなこともしていません。
やりすぎて恨まれることは避ける。
その辺のバランス感覚にも優れていたフシがあります。

まぁ綺麗事だけじゃなく、それも朝廷をうまく利用していただけ、とも思えなくはないのですが。

 

摂政・太政大臣にはなれど、関白には就かず

自分の孫である後一条天皇が即位したことにより、道長は摂政に任じられました。

しかし摂政の地位は早々に返上し、太政大臣になっています。

関白にはなっていません。
彼の日記が「御堂関白記」だったり、権力者の代名詞として「関白」のイメージが付いたのでしょう。

関白は成人した天皇の補佐なので、天皇との相性が悪いと、道長のチカラも弱くなります。その点、リスキーな職でありました。

ただ、太政大臣だった期間も長くはありません。

万寿二年~四年(1025~1027年)にかけて、道長は嬉子・妍子・顕信といった子供たちに先立たれており、彼自身も病にかかったことで、仏教への傾倒が強まっていくのです。

自身の官職を長男の藤原頼通に譲ることで、権力の継承を狙ったと考えられます。
そして、官職を辞して出家した翌年(1027年)には亡くなっているため、計画通りというかなんというか……。

死因については不明ながら、それまでに糖尿病にかかっていた可能性は濃厚です。

藤原道長は糖尿病!? 貴族の頂点に立つも「欠けた月」が見えなかった可能性あり




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