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源義経/Wikipediaより引用

源平 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

源義経31年の儚き生涯をスッキリ解説!兄・源頼朝とスレ違い続けた悲しきヒーロー

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歴史上の人物は、コトを成した人よりも、悲劇的な最期を迎えた方が人気が出がち。

例えば……。

織田信長徳川家康
西郷隆盛木戸孝允
菅原道真>藤原道長

いずれも同時代に活躍しながら前者の方が圧倒的に支持が厚く、物語として、あるいは神様として、今なお語り継がれています(道真と道長は少し時代が離れてますが)。

しかし、そんな彼らより、圧倒的に人気の差がクッキリしている兄弟がおります。

そう、源義経と源頼朝です。

頼朝が政治力も駆使しながら鎌倉幕府を開く――という偉業を成し遂げる最中、その頼朝から追われて奥州藤原氏に殺害されるという悲劇のヒーロー・源義経。
いわゆるドストレートな判官贔屓ですが、実際、気分的には義経を応援したくなりません?

そこで本日は、源義経の生涯という面にスポットライトを当ててみたいと思います!

えさし藤原の郷にて再現された義経街仏堂

 

平治の乱があった年に生まれる

まず、最初に断っておかねばならないことがあります。

今なお日本史でトップクラスの人気を誇る義経ですが、史料はかなり少ないです。

登場するのは、晩年にあたるほんの数年。
それも『平家物語』や『義経記』などの創作物が中心のため、どこまで事実なのか判然としない部分が多々あります。

つまりは、今後、新たな発見の余地が残されている人物であり、通説が覆される可能性も十分にありますが、ともかくそれでは前に進めませんので、「こまけえこたあいいんだよ」の精神でお話を進めていきます。

源義経は平治元年(1159年)、平治の乱があった年に生まれました。
平治の乱は年末の話(新暦では年明け)なので、当時の義経はおそらく生後数ヶ月。

幼名は牛若丸といいました。
頼朝や範頼と比べて広く知られているのは、やはり創作の多さと判官贔屓によるものでしょう。

母の常盤(ときわ)は、近衛天皇の中宮だった九条院(藤原呈子)の雑仕(身分の低い召使い)だったといわれています。

義経の父・源義朝とは、ドコで出会ったのか不明。
常磐が身ごもったと思われる時期は保元の乱と平治の乱の間で、義朝もアレコレ忙しかったはずです。

ただ、両者の間には、義経の他にも二人の息子がいるので、それ以前から懇意にしており、お気に入りだったのでしょう。
当時の価値観や、常磐の雑仕という身分から考えると、その辺で顔を見て気に入った……なんて可能性もありそうです。
少女マンガにでもなりそうなシチュエーションですね。

 

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「将来出家するなら命だけは助けよう」

平治の乱で義朝が敗死すると、常磐たちも窮地に晒されました。
常磐は義経ら幼い息子たちを連れて逃げましたが、平家側の追っ手に捕らわれてしまいます。

同じく捕縛された頼朝は、この時点で元服・初陣を済ませていました。
斬首にされる寸前で、清盛の義母・池禅尼の決定で伊豆への流罪で済んでいます。
その詳細は、頼朝の記事を御覧ください。

【参考記事】源頼朝

一方、義経たち三人は全員、年齢がひとケタ代だったため、
「将来出家するなら命だけは助けよう」
ということになりました。そして全員、別々のお寺に預けられます。

義経は京都の北にある鞍馬寺に預けられ、仏道修行に入りました。

「夜は天狗に武術を教わっていた」なんて話もあり、いかにも平安時代の話という感じがしますね。

京都・鞍馬寺の山門

そして思春期頃に突如出奔し、自ら元服して「九郎義経」を名乗ります。

「九郎」は義朝の九男であることから。
「義」は源氏の通字からきていると思われますが、「経」の字だけ由来がよくわからないところです。

「経」には経典や書物に関する意味が多いので、ただ単にお寺にいたから仏教に関係するような字を選んだのか、他の理由があったのか……。
ちなみに「首をくくる」という意味もあるそうです。こわっ。

 

奥州藤原氏へ身を寄せ

どこをどう歩いて流れ着いたのか。
詳細は不明ながら、義経は奥州藤原氏へ身を寄せました。

当時の奥州藤原氏の当主は藤原秀衡です。
秀衡が義経の言い分をそのまま信じたかどうかはわかりませんが、源氏の御曹司を庇護することについて、デメリットはありません。

そもそも、奥州藤原氏は後三年の役で源氏に味方してもらったからこそ成り立ったという歴史的事実がありますしね。

【参考記事】
前九年の役
後三年の役

もちろん、義経が本当に源氏の御曹司ならば味方につけておいて損はありませんし、もし事実でなかったとしても、担ぎ上げることはできます。
最悪の場合でも客将くらいに扱うことは可能でしたでしょう。

つまり、この時点では、どのパターンになっても奥州藤原氏にとっては悪くない話だった……と考えていいかもしれません。
あくまでこの時点では。

えさし藤原の郷で再現された奥州藤原氏の鎧

秀衡の縁者には、後白河法皇の近臣(いわゆる「院の近臣」)が何人かおりました。
その中に常磐の再婚相手だった一条長成がいたため、長成のツテによって義経は秀衡の下へ行った……という説もあるようです。

それならそれで、もうちょっと記録が残りそうな気もしますが。

 

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頼朝と対面した後、範頼と共に京都へ

さて、義経が歴史の表舞台に出てくるのは、それからしばらく経った治承四年(1180年)のことです。
頼朝が挙兵したことを聞き、実兄を助けて父の仇を討とうと意気込みました。

秀衡も賛成し、義経に自分の家臣である佐藤継信・忠信という兄弟と、その他に騎馬武者を数十騎つけてやっています。
これで義経が、頼朝や朝廷に認められれば、その後ろ盾として奥州藤原氏の勢力も強まる……という計算も当然あったでしょう。

頼朝との対面を果たした後、義経はもう一人の兄・源範頼と共に京都へ。

そこで戦功はあったものの、都で狼藉を働いてしまったイトコ・義仲を討ち、源範頼と「一の谷の合戦」に臨みます。
そして「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」と呼ばれる、急坂からの奇襲で平家軍を蹴散らし、一躍、英雄視されるようになりました。

義仲がアレコレと無茶やった直後だったため、京都の人々にとっては、義経の活躍がより鮮明に映ったことでしょう。

一の谷の戦いの後、義経は頼朝から
「治安回復のため、京都に留まるように」
と命じられ、実際、その通りに働きました。

お陰で、後白河法皇や公家たちの信頼を得ています。
しかし、その信頼が仇にもなるから歴史とは残酷なものです。

後に源頼朝に「日本国第一の大天狗」と罵られる後白河法皇/Wikipediaより引用

 

後白河法皇に政治利用されてしまい……

後白河法皇から利用価値を認められてしまった義経は、政争の道具にされてしまいます。

「コイツをうまく使って、頼朝が政治力をつけないようにしよう」
ってなワケでして。

その象徴となる出来事が、義経の検非違使・左衛門少尉叙任でした。

いずれも京都の治安維持に関わる役職であり、義経から見れば
「法皇様が俺の働きを認めてくださった! 源氏の名誉だ! 兄上も喜んでくださるに違いない!」
ぐらいに考えたでしょう。

ところが、です。
頼朝からすれば
「義経め、俺の頭越しに官職を受けるなんて何を考えてるんだ?
まさか法皇に媚びて、朝廷に入り込むつもりじゃないだろうな?」
なんて疑ってしまうわけです。

頼朝だけでなく、彼ら清和源氏(河内源氏)は、とにかく血族同士による内輪揉めの多い一族です。
やっとまとまり始めたばかりの源氏軍の中心に、頼朝をないがしろにするような弟がいれば、他家にも示しがつきません。

「なんだアイツ、自分の弟にナメられてるのかwww なら俺達だって従わなくてもいいじゃんwww」
なんて思われたら、せっかくの政権も揺らいでしまいます。

義経は素直すぎ、頼朝は確認を怠りすぎ。
それがこの兄弟の悲劇の始まりだった……といえましょう。

 

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嗚呼、源氏、スレ違いがちな一族よ

さらに不幸なことに、彼らには間を取りもってくれる家臣や親族がおりませんでした。

唯一その立場になれそうだったのは、年齢的にも生まれ順的にもちょうど間になる範頼です。
が……彼は彼で、自分の失態を頼朝に詫びていた時期だったので、仲立ちになることは難しかったと思われます。

優秀なところもあるのにスレ違いがちな一族。嗚呼、源氏って切ないなぁ……(´・ω・`)

頼朝は、警告の意味をこめてなのでしょうか、義経を平家追討から外します。
しかし、文治元年(1185)の年明けには、再び同じ役目を与えて、義経に出陣を命じているのですから、やはり力を認めていたのでしょう。

実際、義経はその後、屋島の戦い壇ノ浦の戦いで連勝し、平家追討を成し遂げるのです。

しかし、ここでも彼はやっちまいました。
壇ノ浦の戦い前に頼朝の家臣・梶原景時と大ゲンカをしてしまったのです。
これがキッカケで、さらに頼朝の不信を招いたといわれています。

もちろん頼朝も、景時の告げ口をすべて鵜呑みにしたわけではなく、それまで続いた不手際や、三種の神器を取り戻せなかった失敗を重く見たのでしょう。

馬込万福寺蔵の梶原景時像/Wikipediaより引用

 

兄の許しを乞うため鎌倉へ出向くも門前払い

さすがにキナ臭くなってきた空気を感じ取った義経。

兄の許しを乞うために、捕虜となった平家のトップ・平宗盛らを鎌倉に護送するついでに直接弁明しようと試みました。
が、頼朝は門前払い。

それでも諦めず、相模の腰越というところに留まって、頼朝の近臣・大江広元にとりなしてもらおうとします。
結果から言いますと、これもダメ。

このとき書いた手紙が「腰越状」として知られています。

が、本当に義経が書いたものかどうかは不明です。
義経が広元に仲介を頼んだ可能性は高そうですが、腰越状は後世の脚色が多大に入っているでしょう。

もっとも広元は、自ら「成人してから涙を流したことがない」と言うような冷徹な人だったようなので、義経の情に訴えるような物言いや手紙では、取り次ぐ意味なしと判断している可能性は否定できません。
おそらくや広元の兄である中原親能が、平家討伐で義経に同行していたため、そのツテで広元に頼んだのでしょうが……相手に恵まれませんでしたね。

 

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頼朝、再びチャンスを与えるが

義経は仕方なく、宗盛たちを連れて京都に戻りました。
後白河法皇はこの流れを見てうまくいっていると感じたのか、義経を伊予守に任じます。

当然のことながら、頼朝はさらに激怒。
それでも、もう一度チャンスを与えます(というか、その前に会えば良かったのに……)。

頼朝は義経に対し、以前、源義仲と手を組もうとしていた叔父の源行家を討つよう命じました。

源行家/wikipediaより引用

ここで義経が、にわかには信じがたいリアクション。
「今ちょっと体調が悪いので」と言い訳をして、行家討伐を断ってしますのです。

さすがに頼朝も
「あの野郎、もう俺の言うことをきくつもりがないんだな! よろしい、ならば戦争だ!」
と方針を決めてしまいます。

頼朝は、土佐坊昌俊という刺客を送り、義経を始末しようとしました。

しかし、源行家の助太刀もあり、逆に昌俊のほうが捕らえられ、
「頼朝から命じられて義経を襲った」
と白状。
もはや義経も温厚ではいられなくなります。

義経は、本当に行家と手を組み、次に頼朝追討の院宣を後白河法皇に求めました。

ガチのぶつかり合いを避けたかったのでしょう。
法皇は狼狽しますが、押し切られる形で院宣を出してしまいます。

 

戦乱で巻き込まないよう京都を離れる

コトここに至っては大規模な衝突は避けられない状況。

むろん、事前に、義経が命を惜しむか、頼朝に完全に服従するという考えがあれば、出家だけで何とかなったかもしれません。
しかし実際にはそうなりません。

頭に血が上ってしまったのか。
連戦連勝で調子に乗っていたのか。
武士の誇りを捨てられなかったのか。

鎌倉では義経討伐の準備をしていたものの、逆に頼朝追討の院宣が出されたことを知り、準備が整った軍を京都へ急行させます。

そのため公家や京都の市民たちは
「今度は源氏同士の戦で都が燃やされるぞ!」
と大混乱に陥りました。

保元の乱から武士の実力行使を見せつけられていた京の人々は、老いも若きも貴きも賤しきも、「武士が来る=自分の家が燃やされる」と思ってしまっていたのです。

義経は「俺がここにいては、関係ない人たちを巻き込んでしまう」と考え、自ら京を離れることを決めました。

話が前後しますが、義経の人気が高く、“判官贔屓”という言葉ができたのも、この
「京都を巻き込まないために自ら出ていった」
というところが大きいように思えます。

戦功を上げた武士はこの時代にも多々おりながら、
「他者の存在を意識し、被害を防ぐ」
ことまで考え、実際に行動したのは義経くらいですから、そりゃ支持しますわ。

もちろん感情的な理由だけでなく、既に頼朝の支配力が京都周辺にも及び始めていて、都の周辺で義経に味方してくれる人がいなかった……というのもあります。

ただ、この段階では義経もまだ命までは諦めてはおりません。

 

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九州行きを模索するも嵐で難破、つくづくツイてない

義経は、まだ頼朝の手が及んでいないであろう九州行きを模索しました。

九州の人々は古来から「隼人」と呼ばれ、平安時代初期までは朝廷に対して反旗を翻すこともたびたびある土地柄。
彼らなら「味方になってくれるかもしれない」と希望を持っても不思議ではありません。

そこで、後白河法皇に頼んで九州の地頭に任じてもらい、船で向かおうとしましたが……嵐で難破してしまい、わずかな手勢ですら散り散りに。

その後は結局、頼朝方の追手をかいくぐって奥州へ向かいました。
側室・静御前との別れや、歌舞伎「勧進帳」などはこの逃避行の中での話です。

この間、奥州からずっとついてきていた佐藤兄弟も追っ手に破れ、討ち死にしてしまいました。

奥州に着いてからは、まだ秀衡が存命中だったため、しばらくの間はかくまってもらえたようです。

しかし、文治三年(1187年)になると、奥州にいることが頼朝にバレ、奥州藤原氏への圧迫が強まります。
そして秀衡が亡くなると、跡を継いだ泰衡が圧迫に屈し、衣川の館(現・岩手県西磐井郡平泉町)で義経を討ってしまいました。

1189年のことで、享年31。

孤児同然だった義経が、武士らしくなれた場所である奥州で非業の死を遂げる――何とも皮肉めいた運命であり、悲劇としかいいようがありません。

当時の人々もそのように感じたのでしょう。
特に文化の中心地であった京では義経の人気が高く、『義経記』などの説話や生存説などが作られ、語り続けられました。

源氏の内輪揉めはお家芸レベルの頻発ぶりですが、義経に関しては「ここでこうしておけば」という点が特に目立つだけに、何ともやるせないものです。

仮に義経が頼朝と和解していたら?
たとえそうだとしても、例えばその後、源範頼に謀反の嫌疑がかかった際の尖兵にされた可能性や、北条氏との対立は避けられなかったでしょう。

悲劇が先延ばしになっただけかもしれません。
切ないですけれど。

源頼朝53年の生涯をスッキリ解説!鎌倉幕府の設立や死因、両親など、その素顔に迫る

長月 七紀・記




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参考:国史大辞典「源義経」 源義経/wikipedia

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