広瀬武夫/国立国会図書館蔵

明治・大正・昭和時代 ゴールデンカムイ特集 その日、歴史が動いた

神になった軍人・広瀬武夫「旅順港閉塞作戦(日露戦争)」で劇的な戦死

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明治三十七年(1904年)3月27日、旅順港閉塞作戦で広瀬武夫少佐が戦死しました。

お名前よりも「杉野はいずこ、杉野はいずや」という台詞のほうが有名かもしれませんね。

広瀬とは一体誰だったのか、杉野という人との関係はどうだったのか、そして旅順港とはいったいどこなのか?
突然言われてもピンと来ない方が多いかと思いますので、一つずつ見ていきましょう。

 

ロシア艦隊の居留地・旅順を確保せよ

まず、旅順港とはその名の通り旅順(現在の中国大連市)にある港のことです。

ここはロシア艦隊(通称・旅順艦隊)が根拠地としていた場所で、日露戦争で日本が勝つためには補給・戦略の面から絶対に確保しなくてはいけない場所でした。

半島と半島に挟まれた湾の入口が作戦の対象となった/photo by Kamakura wikipediaより引用

旅順艦隊を放っておくと、いずれ世界最強と謳われていたバルチック艦隊と合流するかもしれない。
そもそも日本軍が大陸へ乗り込んでいくため、大陸側で補給の要となる港も用意せねばならない。

太平洋戦争でもそうでしたが、これが島国ゆえの難しいところで、必ず港という拠点が必要になります。
そうした複数の理由から旅順港の奪取は必須条件だったのでした。

そもそも艦隊のいるところですから、リスクは承知の上で計画を練られます。
それが「旅順港閉塞作戦(りょじゅんこう へいそく さくせん)」です。

結果から先に言いますと、三度行われたこの作戦は全て大失敗に終わりました。

第2次閉塞作戦を描いたイラスト・ロシア軍はサーチライトを効果的に用いて日本軍を撃退する/wikipediaより引用

そして日本軍は海からの旅順攻略を諦め、陸から旅順要塞を落とそうという方針に変えるのです。

いわゆる”旅順攻囲戦”――。
乃木希典大将が総指揮を務め、乃木自身の息子や多くの将兵が亡くなったあの戦いです。

 

沈みゆく船に戻っていく

広瀬と杉野が参加&戦死したのは、二度目の旅順港閉塞作戦でした。

二人が乗っていた福井丸という船が魚雷を受けてしまい、沈没が明白な状況に陥ります。
そのまま沈めると後で機密文書などが浮かび上がって敵軍の手に渡ってしまう恐れがあるため、杉野孫七は沈みゆく船の中、自爆用の火薬を爆発させるべく船へ戻りました。

上官だった広瀬は、杉野が戻るのを待っていましたが、いつまで経ってもその気配がないので心配になり、自ら福井丸の中へ戻ります。

広瀬武夫の様子を描いた廣瀬美邦の絵/wikipediaより引用

現代人から見ると、なぜ上官自ら戻ったのかが不思議になるかもしれませんね。
理由と思われるものは二つあります。

一つは、広瀬と杉野はただの上司と部下である他に、性格的にも意気投合していたということ。
もう一つは、広瀬自身がこの時代としても稀に見る人格者であったということです。

例えば、拿捕した戦艦の掃除をする際「一番汚いところからやるものだ」と言って、自ら素手どころか爪でトイレ掃除をしたという話があります。

「自分で」しかも「爪」でやる人なんていませんよね。
「新入りはトイレ掃除から」というのはもしかしてここから来てるんでしょうか。さすがに素手でやらせるような人はいないでしょうけども。さすがにそれは指導っていうかイジメですな。

 

部下を捜しながら そして軍神へ

広瀬はこういう人だったので、たかが部下一人とはいえ見殺しにして撤退することができなかったのでしょう。

福井丸の中を「杉野はいずこ、杉野はいずや」と呼びかけながら(これは後に作られた歌の歌詞ですが)探したものの、杉野は見つかりません。
三度も見回って見つからなかったので、「もしかしたら既にどこかから流されてしまったかもしれない。あるいは、入れ違いに脱出したのだろうか?」と考え、広瀬は船上に戻ります。

そして脱出用のボートに乗ろうとした、まさにその時。

広瀬の頭に敵砲が直撃し、帰らぬ人となってしまったのでした。

一方、杉野のほうは、遺体が見つからなかったためたびたび生存説が噂されました。
しかしどれも憶測の域を出ず、やはり広瀬と前後して戦死したものと思われます。

広瀬については「部下の身を案じたがために命を落とした」という美談から、死後すぐに日本初の「軍神」として祭り上げられ、神社や銅像が作られました。

大分県竹田市にある広瀬神社/photo by Heartoftheworld wikipediaより引用

名家の出身でもなく、際立って階級が高いというわけでもない割に広瀬の名が他の軍人と比べて知られているのは、このエピソードと「軍神」になったためでしょう。

 

戦前にはロシア女性とのロマンス

広瀬が以前ロシアに留学していたことがあるというのも因果な話です。

日露戦争が起こる四年ほど前のことで、ロシア語を学び、社交界にも出入りしていました。

中でもアリアズナという女性は広瀬が生涯で唯一交友関係を持った女性であり、彼女は広瀬の戦死を聞いて喪に服したとも言われています。

アリアヅナのイメージ/wikipediaより引用

また、広瀬の遺体はロシア軍によって埋葬されているのですが、もしかしたら旅順で交戦した部隊の中にもアリアズナの親類縁者や友人、そうでなくても広瀬を見知っていた将兵がいたのかもしれません。
かつて交友を持った相手と命がけで戦うというのは、いったいどんな気分になったのでしょうか……。

今も世界のあちこちに火種がありますけれど、やはり戦争はもう起こらないでほしいものです。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
広瀬武夫/wikipedia

 



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