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その日、歴史が動いた 明治・大正・昭和時代

6歳で渡米した頭脳明晰の才女・津田梅子 「身分にとらわれない女子教育」は実現したか?

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「ないものねだり」とは面白い言葉です。
どんなに魅力的で欲するものでも手に入れることはできない――されど逆の立場から考えてみて、「ないもの」を「持っている」人たちでも、当人たちがそこに何の価値も感じていなければまるで意味が無い――それをたったの六文字で表してしまうのですから。

例えば、昔の偉人達が現代を見ることができたとしたら、同様の状況になることも多々おありでしょう。
本日はそんな感じのお話です。

昭和四年(1929年)8月16日は、津田塾大学の創始者・津田梅子が亡くなった日です。帰国子女のはしりともいえる人ですし、この時代の女性としては有名なほうでしょうかね。

しかしそれ以外の点となると、意外に知られていないのではないでしょうか。
本日はその辺を見ていきましょう。

ブリンマー・カレッジ在学時の津田梅子/wikipediaより引用

 

岩倉遣欧使節とともに海路で渡米

梅子は、元幕臣の父・津田仙の次女として、現在の東京都新宿区で誕生。
明治時代に入ってから、仙が北海道開拓使次官の黒田清隆と知り合ったことで、梅子の運命は八割がた決まりました。

黒田が女子教育にも関心を持っていたため、仙もそれに同調し、当時6歳の梅子を海外留学させることに決めたのです。
物心ついたばかりの娘に対して、仙は一体どんな説明をしたんでしょうね。

こうして梅子は、岩倉遣欧使節とともに海路でアメリカへ向かいます。

現地では画家のチャールズ・ランマンという人の家に預けられ、英語やピアノを習いながら、アメリカでの生活に慣れていきました。
幼かったぶん飲み込みも早かったようで、ちょっとした弊害もありました。日本語から遠ざかっていってしまったために、日本にいる父親への手紙も英語で書くようになったのです。
仙も英語を学んでいたので、恐らく読むのには問題なかったでしょうが……カーチャンはたぶん読めなかったでしょうね。娘が成長してしっかり学んでいる証拠ではあっても、寂しい思いをしたのではないでしょうか。

キリスト教に関しては特に何も言われていなかったようですが、9歳のとき自分の意志で洗礼を受けに行ったとされています。両親が梅子の洗礼から二年後に洗礼を受けているので、もしかしたら梅子の手紙に影響されたのかもしれませんね。

こんな幼くして渡米とは……いや、幼いからこそ思い切ったことができたのでしょうか/wikipediaより引用

 

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帰国後は「結婚の話を聞くだけでも嫌だ」

14歳のときには私立女学校へ進学し、語学・英文学・自然科学・心理学・芸術を学習。17歳のときに日本から帰国命令が出ましたが、山川捨松(後の大山捨松)と梅子は在学中だったため、延長を申請しました。

捨松と梅子はこれ以外のことでも一緒に行動するなど、大変仲が良く、帰国してからも長く友情を続けています。同時に、捨松のホストファミリーだったベーコン家の末娘・アリスも二人と友情を育みました。また、ランマン夫妻に連れ添われて休暇には各地を旅行するなどもしてエンジョイしておりました。

梅子らが帰国したのは、明治十五年(1882年)のことです。
しかし、人格形成に最も影響する幼少期を異国で過ごした彼女らにとって、母国は決して身近なものではありませんでした。

現在でさえ、儒教の価値観から完全に脱してはいない日本です。明治時代ならいわずもがな。せっかく身につけた西洋の学問や生活習慣・見識を、女性が活かせる場所はほとんどありません。

捨松ともう一人の女子留学生・永井繁子は軍人に嫁ぎましたが、梅子は日本での結婚観に嫌気が差し、生涯独身を貫くことを決めます。あっちこっちから縁談はあったそうですが、後々手紙で「結婚の話を聞くだけでも嫌だ」と書いているくらいですから、よほどしつこく勧められたのでしょうね。
当時の結婚観からすると、アメリカで学んだことが無駄になる可能性が高かったから、でしょうか。

 

伊藤博文から下田歌子を紹介される

自らの進むべき道を模索していた梅子。そんな折、外務卿(現在の外務大臣)・井上馨から夜会への招待がきます。
ここで梅子は、伊藤博文から下田歌子を紹介されました。歌子はこの頃、桃夭女塾を開いて数年め。まだまだ人材がほしいところだったのです(【関連記事】昭憲皇太后にも愛された下田歌子 「提灯袴にブーツ」姿も考案した女子教育の先駆者とは?)。

梅子は伊藤や桃夭女塾の生徒たちに英語を教えながら、歌子から日本語を教わり、日本人として、大人としてスタートを切りました。こうした努力と意思は伊藤に認められ、華族女学校の英語教師にも推薦されています。

ただ、華族=元公家・元武家のお嬢様が通う学校ですから、気風にはあまり馴染めなかったようです。なんせ女子の体育の授業が新聞に書き立てられるような時代です。庶民と華族の間に相当の隔たりがあったことは想像に難くありませんよね。

 

ヘレン・ケラーを訪ね、ナイチンゲールとも会見

24歳のときにはアリス・ベーコンが来日し、再度の留学を勧められて二回目の渡米を決意。父のツテで留学と学費免除を取り付けることができ、再度渡海して生物学を学びました。

成績はなかなかのものだったようで、大学からは「ここに残って研究を続けたらいいじゃないか」と言われたとか。
しかし、再びアメリカで生活したことで、梅子は自分がやるべきことを見いだせたようで、誘いを断って三年で帰国を決意します。
日本女性の現状を知った上で再び留学したことにより、女子教育を広める大切さを実感したのでしょう。

帰国後は再び華族女学校に勤めながら、明治女学院でも講師を務め、自宅に女学生を預かるなど、女子教育の支援を積極的に行いはじめました。
34歳のときには女子高等師範学校教授を兼任し、アメリカで日本女性の代表として万国婦人クラブ連合大会で挨拶しています。

その足でヘレン・ケラーを訪ね、さらにイギリスに招かれてフローレンス・ナイチンゲールやヨーク大主教とも会見するなどしていますので、ますます女子教育の重要性を肌で感じたと思われます。

タイミングを図ったかのように、梅子35歳のときに日本では高等女学校令、私立学校令が公布。これによって、法的に女子教育の足がかりができました。
梅子は他の学校の講師を辞め、父やアリス・ベーコン、大山らの協力を得て、「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を設立しました。
ここで彼女は、「身分にとらわれない女子教育」を実現すべく邁進していきます。

一番左が梅子でその右隣がアリス・ベーコン/wikipediaより引用

 

実学重視の方針に逃げ出す学生たちもいた

それまで女性への教育というと、学問というより教養という面が強いものでした。

しかし梅子は、女性が社会に出て役に立てるような、実用的な教育を行います。その厳しさに逃げ出す学生もいたそうですが、梅子たち講師陣も難しい状況に置かれていました。
というのも、外部から教育方針への干渉を受けないように、スポンサーを求めることを極力避けていたからです。

当初梅子らは、無償で授業を行うことで資金不足を補っていましたが、学生や教師が増えるとそうもいきません。明治三十六年(1903年)には専門学校令が公布されたため、これに申請して塾を社団法人としたことで、大分マシになったようです。

梅子は大正八年(1919年)に健康上の理由で塾長を辞任し、後進に学校を任せました。その後は鎌倉の別荘で療養していたそうが、10年後の昭和四年(1929年)に脳出血のため64歳で亡くなっています。

その後、女子英学塾は津田英学塾と改名し、戦災によって校舎を失いながらも、津田塾大学として今に続いております。

世情の変化と教育制度の整備により、女性が教育を受けること、社会に出て自立することはごく当たり前になりました。

梅子がこれを見て満足しているか、あるいは偏差値主導の風潮に不満を抱くか……さて、どっちなのでしょう。

長月 七紀・記



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参考:津田梅子/wikipedia

 

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