不破光治

絵・小久ヒロ

斎藤家

美濃三人衆に並ぶ存在だった戦国武将・不破光治の生涯~勝家の下で北陸を制する

戦国時代を描いたマンガや書籍で、なんとなく名前は目にする。

だけど、わかりやすいエピソードや派手な活躍には欠けるため、強くは印象に残らない。

そんな戦国武将は数えだしたらキリがないかもしれませんが、今回、注目したい方はその中でも特に評価が低くされているような……。

そう、不破光治(ふわみつはる)です。

柴田勝家前田利家、あるいは佐々成政の歴史を振り返るとき、北陸エリアの戦いでは必ず目にする存在ですよね。

しかし同時に、不破光治が主役となるような目線で語られることも少なく、なんとも微妙ではありながら、その戦績などを見てみると決して馬鹿にはできない。

実は斎藤家から織田家にやってきて、信長の主要な合戦にもことごとく参加していた。

そんな不破光治の生涯を振り返ってみましょう。

絵・小久ヒロ

 


美濃三人衆に並ぶ存在

不破光治の出自については諸説あり、定説と呼べるほどのものは見つかっていません。

若いうちから斎藤道三に仕え、ある程度の有力者ではなかろうか、ということはわかっています。

斎藤家から織田家に鞍替えした安藤守就稲葉良通氏家直元の”美濃三人衆(西美濃三人衆)”。

ここに光治を加えて四人衆とする見方もあり、あくまで後世の呼び名ではありますが、三人の次に光治も有力な武将だったということは伺えそうですね。

美濃三人衆の一人・稲葉良通(稲葉一鉄)/wikipediaより引用

斎藤家の配下だったときは5000貫もの所領があったとか、美濃安八郡西保城主だったともされます。

三人衆は永禄十年(1567年)に全員織田氏へ鞍替えし、光治はもう少し後まで残っていたようです。

その間にも織田からの調略を受けながら断っていたのか。

それとも「調略するほどの者ではない」と見なされていたのか。

事の経緯は不明ながら、結局、光治も斎藤家を見限り、織田家に仕えることとなります。

 


織田家へ出奔

美濃の斎藤から織田へ出奔して数年後。

「信長の妹・お市の方浅井長政に嫁いだのは、不破光治の功績によるもの」

そんな説もありますが、出典が江戸時代に成立した『浅井三代記』ですので注意が必要ですね。

そもそも浅井や当時の近江に関する記録があまり見つかっていないので、これが事実かどうか判断しにくいところ。

実際「お市の方がいつ嫁いだのか」ということすら判然としていませんので、今後の新史料発見次第となりますね。

一方『信長公記』では、永禄十一年(1568年)夏に記録があります。

越前にいた足利義昭を迎えるため、信長から派遣された家臣――その中に不破光治が挙げられているんですね。

その後、上洛戦の途上で近江を攻略した後、美濃にとどまっていた義昭を迎えに行かせる使者としても光治が選ばれた、とあります。

足利義昭/wikipediaより引用

隣国の美濃出身だから、越前方面に何かしらのツテがあったのでしょうか。

 


織田家の重要な合戦に尽く出陣

不破光治は、もちろん戦の記録にも登場しています。

永禄十二年(1569年)8月、伊勢国司北畠具教を攻めた大河内城の戦いでは包囲の東方面に光治が参加していました。

北畠具教/wikipediaより引用

織田家の重臣たちである柴田勝家や森可成、佐々成政などと同じ方角です。

また、息子の不破直光もこの戦に参加(=成人)しておりますので、美濃にいた頃には結婚して息子をもうけていたと考えられます。

そして元亀元年(1570年)6月21日、小谷城攻めで雲雀山へ登って町を焼き払った者たちの中にも不破光治がいました。

ここでも森可成と同じ役目をもらっていたことになります。

明言されていませんが浅井朝倉とぶつかった姉川の戦いにも参加していたでしょう。

浅井長政/wikipediaより引用

美濃三人衆が一軍の隊長を任されたのに対し、光治は信長の身辺にいたため個人名の登場が少なかったと考えられます。

推測の域を出ませんが、信長の周辺にいた美濃出身者の取りまとめのような役割を持っていたのかもしれませんね。

続いて同年9月、比叡山包囲(志賀の陣)にも参加。

元亀二年5月には大田口の合戦(長島本願寺攻めの緒戦)で川筋の西、多芸山の麓=大田方面から攻めた武将の一人とされています。

ここでは柴田勝家や氏家卜全・稲葉一鉄などと同道していました。

この戦の撤退時に殿の二番手だった卜全が討死しています。もしも光治が彼と同じくらいの兵数を任されていたら、ここで討死したのは光治だったのかもしれません。

光治はあまり多くの兵を任されていなかったと思われますが、信長の信頼が薄かったわけではなさそうです。

元亀三年(1572年)4月には、三好義継・松永久秀の謀反に対して討伐に差し向けられており、佐久間信盛や柴田勝家などの重鎮のほか、稲葉一鉄ら美濃三人衆(氏家家や卜全の子・直通)とともに出陣。

元亀四年(1573年)には足利義昭の籠もる槙島城攻めにも加わりました。

そんなわけで、光治の動きはある程度追えるものの、強く印象を残す逸話はというとなかなか難しいところ。

さらに『信長公記』を見てみましょう。

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