大河ドラマ『豊臣兄弟』で注目されている信長の弟・織田信勝(信行)。
兄の信長を訪れた時に、背後から柴田勝家に斬り殺されるシーンが非常に印象的だが、果たしてあの殺害場面は史実通りに描かれたものなのか?
『信長公記』などを参考に当時を振り返ってみよう。
重臣たちも信長を見限っていた
そもそも織田信長には何人のきょうだいがいるのか?
その数、11人の男兄弟と14人の姉妹と言われる(諸説ある)が、とにかく当時は子沢山であれば良い!……とも言い切れない。
正室から生まれた男兄弟の年齢が近いと「跡目争い」という不幸が待っており、信長・信勝兄弟の争いも、典型的な相続問題であった。
弟の織田信勝は、父の居た末森城を譲られるだけでなく、柴田勝家などの有力家臣もつけられ、天文二十一年(1552年)3月に行われた父の葬儀でも折り目正しく振る舞う、優等生タイプだったことが『信長公記』にも描かれている。
一方、傾奇者(かぶきもの)の出で立ちで葬儀に現れ、仏前に抹香を投げつけたのが兄の信長である。

若き日の織田信長/絵・富永商太
はたから見れば“ホンモノのうつけ者”であり、弟の信勝派が勢力を拡大させていくのも仕方ない状況。
事実、信長につけられていた家老の林秀貞も信勝派に寝返り、弘治二年(1556年)8月、ついに彼らは蜂起し、両軍は「稲生の戦い」で激突した。
◆弘治二年(1556年)稲生の戦い
織田信長
vs
織田信勝・柴田勝家・林秀貞・林美作守
結果は、信長の勝利だった。
👉️戦いの詳細は別記事「稲生の戦い」へ
現実を認識できなかった信勝
総大将にもかかわらず、戦場で自ら前へ出るタイプの信長は、稲生の戦いでも駆けずり回って大声を張り上げ、敵を撤退させながら勝利をもぎとった。
そんな姿を見て「単なるうつけ者ではない」と勝家も観念したであろう。

柴田勝家/wikimedia commons
しかし哀しいかな、そうした現実を認識できなかったのが信勝である。
戦いの当日、織田信勝は戦場には向かわず城に籠もっており、敗戦後は母親の口添えで助命され、しかも母と共に信長を訪れ謝罪をしていた。
そんな信勝が、今度は岩倉織田氏と手を組むという謀反計画を進め、柴田勝家に相談したものだから運の尽き。
勝家は、信勝の相談に応じながら、信長へ「信勝の謀反計画」を報告するのであった。
それゆえ大河ドラマ『豊臣兄弟』でも、柴田勝家が信勝を斬ったことにしたのであろう。
では実際はどうだったのか?
殺害当日の状況を『信長公記』で振り返ってみよう。
直接手を下したのは「河尻・青貝」
ときは弘治三年(1557年)11月2日。
もう「何日も病気で寝込んでいる」という信長を見舞うため、織田信勝が清洲城へやってきた。

絵・小久ヒロ
自ら信長への謀反計画を建て、柴田勝家に相談しておいて、のこのこ清洲城にやってきて、脇が甘すぎないか……。
逆に自分が殺られるという心配はないのだろうか。
そんな風に聞きたくもなるが、実は信長を見舞うように勧めていたのが、他ならぬ柴田勝家と母親の土田御前である。
彼らの助言であれば、疑う余地など抱かない――そうして清洲城に現れた信勝は、北櫓天守次の間へ案内されると、そのまま同室で殺害された。
直接手を下したのはドラマのように柴田勝家ではない。
『信長公記』によると「河尻と青貝」という人物である。
ただし、同じ『信長公記』でも写本によって中身にズレがあり、その二人が「河尻秀隆と青貝某」なのか「河尻青貝」なのか、確定までには至っていない。
いずれにせよ河尻某と青貝某という信長の家臣が手掛けたことに間違いはないだろう。
★
信勝を処断した信長は、その後、信勝の遺臣たちを取り込み、自軍を強化。
林秀貞も許されたが、後に織田家を追放されるとき「あんとき俺を裏切ったよな」と信長に詰められることになる。
ただし、柴田勝家は何も言われず、北陸方面軍の軍団長として活躍しているので、林秀貞が重臣に見合うだけの働きをしていないと判断された可能性もあるが、正確な理由は今も謎。
よろしければ別記事「林秀貞」で詳細をご覧あれ。
◆『豊臣兄弟』総合ガイド|秀吉と秀長の生涯・家臣団・政権運営等の解説
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