大政所と本多重次の肖像画

大政所と本多重次/wikimedia commons

徳川家

秀吉の母・大政所は屋敷ごと焼かれそうになった?薪を積んだ本多重次のその後

天下人を目指す息子・秀吉のため、岡崎城に人質として出向いた大政所(なか)。

大河ドラマ『豊臣兄弟』第41回放送でも彼女が屋敷へ到着するシーンが描かれましたが、このとき井伊直政が“大量の薪”を部屋の前に積んでいたのを覚えていらっしゃいます?

まるで「大政所の部屋を焼いてやろう!」と言わんばかりの大量の薪。

実はあの場面、まったくのドラマオリジナルというわけでもなく、本多重次のエピソードとして現在にまで伝わっているのです。

「鬼作左(おにさくざ)」の異名で知られた重次は一体なぜそんなことをしたのか?

本多重次の肖像画

本多重次/wikimedia commons

逸話の真偽も含めて、当時を振り返ってみましょう。

 


岡崎城を任された「鬼作左」本多重次

本多重次は家康が三河を固めたころの「三河三奉行」の一人。

不正を嫌って厳しく対処する気性から「鬼作左」と呼ばれました。

天正十三年(1585年)11月には、岡崎城代の石川数正が秀吉のもとへ出奔したため、家康は岡崎城を大改修し、後任に重次を据えています。

要は、重臣中の重臣ですね。

岡崎城

岡崎城

研究者・煎本増夫氏の著書『徳川家康家臣団の事典』では、本多正信が家康に対して「節に死する臣」でなければ岡崎城代は務まらないとして、重次を推挙したことが説明されています。

そんな重次には、秀吉に対して浅からぬ因縁がありました。

人質を出していたのです。

前年に家康の次男・義伊(のちの結城秀康)が大坂へ送られたとき、一緒に差し出されたのが重次の息子・仙千代でした。

その重次のもとへ、今度は秀吉の母が人質としてやってきた。

いったい何が起きるのか?

 

薪を積んだのは本多重次か井伊直政か

天正十四年(1586年)10月18日に大政所が岡崎城へ入城。

家康は20日、上洛の途につき、城に残った本多重次と井伊直政が大政所を警固しました。

大政所(なか)の肖像画

大政所(なか)/wikipediaより引用

そのときの話が江戸時代に成立した『落穂集(おちぼしゅう)』に掲載されています。

以下に内容をまとめておきましょう。

【意訳】

本多重次は、大政所の屋敷周囲に柴や薪を積み上げ、家康に万一のことがあれば、すぐに火を放つ構えを見せた。

不安になった女中たちが「あの薪は何のためか」と尋ねても、井伊直政は「知らない」と答えるだけ。

その直政は、たびたび大政所のご機嫌うかがいに訪れ、果物や菓子を届けたので、女中たちは薪を積んだのは重次の仕業だろうと噂し合った。

出典:『落穂集』

江戸時代の逸話であり、どこまで史実だったのか、定かではありません。

煎本氏の事典では、薪を積み置いたのは井伊直政と重次の二人としています。

いずれにせよ確かなのは、家康が無事に戻ったあとの11月12日、今度は井伊直政が大政所を大坂まで送り届けたことでしょう。

しかし、問題はそこからです。

実は物語には気になる続きがあります。

 


大政所の怒りと本多重次のその後

『落穂集』の続きを見てみましょう。

【意訳】大坂に戻った大政所は、秀吉に対して「本多重次を家康からもらい受け、死罪か流罪にしてほしい」とまで頼んだ。

出典:『落穂集』

「気の良いかーちゃん」というイメージの大政所も、今回ばかりはさすがに怒ってしまいました。

まぁ、仕方ないですよね。本多重次からは「殿(家康)になにかあったら、屋敷ごと焼き殺すぞ!」と脅されたわけです。

ただ、それはあくまで『落穂集』に書かれたお話。

むしろ気になるのは、史実における本多重次の処遇でして。

実は天正十八年(1590年)小田原合戦のあと、秀吉は家康に対して重次を追放するよう迫ったとされます。

豊臣秀吉の肖像画

豊臣秀吉/wikimedia commons

そして徳川家の関東移封後、重次は上総国古井戸に退き、文禄二年(1593年)までには下総国井野(現在の茨城県取手市)へ移って、ひっそりと暮らしました。

なぜ秀吉がそんな命令を出したのか。

人質に出していた息子の仙千代(成重)を、許しを得ずに三河へ帰らせたことが理由の一つとされ、大政所の一件も尾を引いていたと考えられています。

となると、あれは物語ではなく現実に起きていたのか?

そう考えてしまいますが、真相は不明です。

なお、大政所の人質と引き換えに京都・大坂へ向かった家康は、ドラマの書状にあったように6万もの徳川軍を引き連れていったのか?

という関連記事は以下にございますので、よろしければ併せてご覧ください。

榊原康政・本多忠勝・酒井忠次の肖像画
家康は本当に6万騎もの徳川軍で上洛したのか|大坂へ進んだのは約3000人

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◆ 『豊臣兄弟』総合ガイド|登場人物・史実・出来事を網羅


参考文献

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    五十嵐利休

    武将ジャパン編集管理人。 1998年に早稲田大学を卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として約30年活動。歴史関連からエンタメ書籍まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、編集責任者として累計4,000本以上の記事の編集・監修を担当。 月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・古代・幕末・世界史の広範な執筆とSEO設計に精通。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆武将ジャパン(団体)国立国会図書館典拠データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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