たとえ安田国継の名を知らずとも――戦国ファンの皆さまなら、本日6月2日が如何なる一日か、ご存知でしょう。
天正十年(1582年)のこの日、あの織田信長が明智光秀らによって斃されました。
ご存知【本能寺の変】であります。
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信長は森蘭丸などの側近と共にしばし応戦した後、自ら火の上がっている奥の間にこもり、そのまま腹を切ったといわれています。
その後の遺体や首の行方についてはわかっていませんが、「討死」でなかったことだけはおそらく確実です(死因の分析は文末に別記事のリンクがございます)。
では、最後の最後に信長が相見えた敵は誰だったのか?
実はその人物の名前と、その後のことは伝わっています。
名は、安田国継。通称は作兵衛。
後に天野源右衛門とも名乗りました。
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安田国継は光秀家臣・利三に仕えていた
弘治二年(1556年)に美濃の安田村というところで生まれ、いつしか明智光秀の家臣・斎藤利三に仕えるようになります。
光秀にとっては陪臣(ばいしん・配下の配下)ですね。
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その頃の功績は不明なれど、本能寺の変では先鋒の一員ですから、日頃から真面目に武働きをしていたのでしょう。
光秀は信長に襲いかかるギリギリまで、兵に知らせていなかったとされていますので、国継はそれを聞いた途端にどう思ったか。ビビッたのか?
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もしかしたら
「千載一遇の好機」
と気合を入れたのではないでしょうか。
当時の信長は、畿内をほぼ完全に掌握。武田討伐も終え、あとは西国と上杉氏のみ……というところでした。
言わば日本で一番の大物です。
もしも単独で信長の首を取ることができれば、光秀から凄まじい褒美が出ることは間違いありません。一国一城の主になれるどころか、それ以上のことを望んでもよいぐらいの話でしょう。
まぁ、それは他の明智方の将兵も、似たようなものだったはずですが。
寡兵の織田軍に13,000の明智軍が襲いかかり
そして天正十年6月2日の午前4時頃、いよいよ明智方が本能寺に攻め寄せます。
本能寺はたびたび信長の宿所として使われており、いくらかの防御機能は備えていました。
が、いかんせん明智軍との兵力差は圧倒的。
このときは信長も、長男・織田信忠も、京都に滞在してはおりましたが、手勢はわずかのみです。
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一方、明智軍は準備万端。
そもそもが中国攻め中の羽柴秀吉(豊臣秀吉)に加勢するために編成されていたので、1万3000ほどの兵力がありました。
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その差は歴然です。
襲いかかられたら逃げる他ありませんが、信長は気づいたときには包囲されてしまっていたので、もうどうしようもありませんでした。
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この1万3000ほどの中で、信長のところまでたどり着けたのが国継とその他のいくらか、といったところでしょう。
信長はこのとき、本拠である安土城の面々に「俺は小姓らを先に京へ行くが、お前たちは支度を済ませて、命令があり次第すぐ出陣するように」と言い置いていました。
現代風にいえば、最低限のボディガードだけを連れて京都に来ていたのです。
逆にいえば「多少の暴漢に襲われても、返り討ちできる剛の者を引き連れていた」ということになりますね。
信長に襲いかかり、返す刀で蘭丸を討つ
有名な森蘭丸(森成利)もこの中にいました。
蘭丸については信長との衆道関係が注目されがちですが、諸々の逸話からは、相当に頭のキレる人物であったことが推察されます。
父親である森可成や兄の森長可が槍の名手であることを考えると、蘭丸も並以上に槍を扱えたことでしょう。
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他の小姓たちも、頭脳なり腕っぷしなりで、信長に認められた者たちだったはずです。
いわば信長自身が選んだエリート中のエリートと、今後の人生がごっそり変わるような褒美を賭けて攻め寄せる雑兵たちがぶつかりあったのが、本能寺の変ということになります。
始まったのが午前4時で、騒ぎが落ち着いたのが午前8時といわれていますから、多勢に無勢における信長の小姓たちの奮戦ぶりがうかがえますね。
そこで安田国継はどんな活躍をしたか?
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