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【伊勢貞興】
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将軍のそばに仕え やがて信長の家臣となる
生後間もなく祖父と父を失った兄弟は、若狭小浜(おばま)に逃れました。
伊勢家の家臣らに養育されたといいます。
父と祖父の「罪」も、子供にまでは及ばず、貞興はわずか8歳で「幕府御供衆」に列せられ、足利義昭に仕えているのです。
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兄の貞為については「幕臣に列せられた」というハッキリした記録は残されていません。
しかし弟の立場や「伊勢伊勢守貞隆」なる人物が義昭に仕えていたことが判明していることなどから、兄弟で義昭に仕えていたものと推測されております。
また、貞興は元亀2年(1571年)時点で政所のトップに任じられていることが確認されており、元亀年間に上洛した織田信長の後援によって復権を得たと考えられています。
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ただし、政所で実権を握っていたことはありえないでしょう。
元亀2年の伊勢貞興はまだ10歳であり、兄もまだ10代前半。
おそらく信長やその家臣らの補佐を得て形式的に政所頭人とされていただけではないかと考えます。
京都の政治をすすめるうえで利用されたとも見てとれますが、不思議なこともあります。
なぜ兄である伊勢貞為ではなく、伊勢貞興が政所の職を継いだのか?
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兄ではなく弟の貞興が職に就いた理由――史料によれば「兄が病弱なため」ということになっています。
他にも、足利義昭によって「兄の貞為は将軍職を争った足利義栄派である」とみなされ、追放されたという見解もあります。
ともかく信長と義昭の関係が悪化していく中、彼ら兄弟はあくまで幕臣として義昭の味方であり続けました。
そのため、元亀4年(1573年)に義昭が挙兵し、
【義昭vs信長】
という争いが頂点に達したときも義昭サイドで参加し、二条城に籠ります。
敵対するのは天下の信長軍。
伊勢兄弟を含む公家衆は、戦う前から大軍に気圧されてしまい、ほとんど争うことなく城を明け渡してしまいます。
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信長にはもはや勝てない――と悟ったか。あるいは周囲の家臣にそう諭されたのか。
伊勢兄弟は完全に信長の家臣となります。
なお、この時点で兄の貞為は病気のため、貞興が実質的な当主になっていたと考えられています。
当時の貞興は11歳。
権力はあくまで形式上のものであり、やはり補佐役は別にいたと考えるべきでしょう。
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