足利義尚

足利義尚/wikipediaより引用

足利家

九代将軍・足利義尚が酒色に溺れて早死したのは「応仁の乱」のせい?

歴史に名を残すのは「超高評価」か「超低評価」。

極論を承知で申し上げますと、多くの人々の記憶に残るのは「英雄」か「悪人・ダメ人間」しかいないでしょう。

どんなに偉い立場の人でも、長所・短所がハッキリと目立たなければ、後世にも記憶に残らないわけで……。

延徳元年(1489年)3月26日は、室町幕府九代将軍・足利義尚(よしひさ)が亡くなった日です。

享年25の若さで落命――と言うと、一瞬、毒殺も頭をよぎりますが、実際は「酒色に溺れたのではないか?」なんて見立てもあります。

義尚の生涯を振り返ってみましょう。

 


応仁の乱を呼んだ足利義尚

1467年に起きた【応仁の乱】の中心……にされた人物ですが、なんせ乱から2年前の生まれですから、彼自身の意志は全く反映されていません。

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最中である文明五年(1473年)、正式に将軍になっているものの、まだ8歳の少年に実務は不可能ですからね。

しかも亡くなったのが25歳という若さ。

功績も少なく、ほとんど誰にも注目されない、あまりにも切ない扱いとなっております。

まぁ、トーチャン(足利義政)とカーチャン(日野富子)のキャラが濃すぎるので、致し方ないところかもしれませんね。

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ともかく今回は、もう少しだけ義尚の生涯にも着目してみたいと思います。

 


近隣の大名を懲らしめて権威を取り戻すぞ!

応仁の乱が、一応終わったとき、義尚は12歳でした。

当時であれば元服=成人扱いになることも多い年齢ですから、そろそろヤル気も出てきます。

しかし、状況は最悪。

乱の最中に下克上が当たり前になり、京都周辺の大名ですら室町幕府に対して「将軍様ってwwwwwww」というような態度を取ることも珍しくなくなっておりました。

ましてや幼い将軍など、説明するまでもないでしょう。

義尚は……というか義尚以降の将軍は、この「幕府の権威回復」のために行動するようになっていきます。

その一人目である義尚は「まず近所の大名をとっちめて、権威を取り戻すことを第一歩にしよう!」と考えました。

相手として選ばれたのが、近江の守護大名・六角高頼です。

応仁の乱では義尚の敵方についていましたし、京都と近江はお隣ですから出陣の費用も抑えられます。

ついでに、六角家は公家や寺社の荘園をぶん取っていたので、大義名分は義尚と幕府にありました。

目のつけどころはなかなか良かったといえましょう。

 


2万の兵で六角家に攻め込むも

足利義尚は、約二万ほどの兵を率いて、六角家に攻め込みました。

一方、六角高頼は、本拠・観音寺城を捨ててゲリラ戦に持ち込んだため、大所帯である幕府軍のほうが不利になりました。

義尚は京へ帰るに帰れず、鈎(まがり・現在の滋賀県栗東市)で長く滞陣せざるを得なくなります。

足利義尚/wikipediaより引用

ここで政務を取りながら、あるときは公家や大名の訪問を受け、またあるときは軍の指揮を執るという状態になったのです。

現在の総理大臣でさえ、外遊中や何らかの原因で欠けたときには代理が置かれるのですから、義尚は相当忙しい日々を送っていたでしょう。

まだ20代で経験も浅く、母ちゃんのプレッシャーも強い。

その上、別の地方からも「ウチの権限を認めてください」「ウチの領地取られた! あいつ何とかして!」などなどの要望が送られてくる状況ですから、相当なストレスを感じていたことは間違いありません。

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