相手の粘りに対し、さすがに信長のほうがキツくなり、他への影響を懸念し、使者として菅屋長頼を出しています。
この人は若い頃から信長の馬廻りとして仕えていて、前線で戦う武士というよりは、交渉や連絡などの役目をよく命じられていました。
武芸よりも話術や人格に優れたタイプだったのかもしれませんね。
信長は長頼を通して、
「いつまでもこうしていても不毛だから、一線交えて決着をつけよう。日限を定めて出撃してこい」
と伝えました。
帰ってきたのは意外な答えでした。
「和睦したい」
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信長ピンチと聞いて秀吉駆けつける
織田信長はこれまでの鬱憤をぜひとも晴らしたかったので、撥ね付けはねつけました。
森可成という得難い家臣をやられた上、散々引っかき回されているのですから、スカッとしたいのも当然でしょう。
軍事的コストを考えれば、ここで一気に片付けておいた方が話も早いです。
南へ目を向ければ、摂津の三好三人衆が野田城・福島城を補強するなどして、信長への敵意を表し続けておりました。
周辺の大名も堅固に守りを固めており、京都方面へ近づくことはできず、膠着状態――。
南近江では六角義賢親子が菩提寺の城(湖南市)まで来ていたとされます。
不幸中の幸いというべきか、こちらは兵力がなさすぎて、戦の準備にすらなっていませんでした。
近江でも本願寺門徒が一揆を起こしたものの、すぐに木下藤吉郎(豊臣秀吉)・丹羽長秀に鎮圧され、こちらも大事には至りません。
もともと彼らは、浅井家の小谷城を見張るため、横山城を守っていたのですが、
【本願寺と浅井朝倉に挟まれて信長大ピンチ】
という一報を聞き、わずかな兵で駆けつけるのでした。
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なんとも秀吉らしいじゃないですか。大人気の戦国漫画『センゴク』でも一つの山場として描かれていたシーンで、元々は信長公記に書かれていたんですね。
信長も大いに喜んだようで、織田軍の士気も上がるのでした。
長島の一向一揆に攻められ弟が自害
しかし11月21日に尾張で悲劇が起きています。
信長の弟・織田信興(織田信与)が、居城としていた尾張・小木江城を長島の一向一揆に攻められ、自害していたのです。
彼は早くから信長に従い、信長も厚い信頼を寄せていた弟でした。
信興の生年はわかっていませんが、彼は信秀の七男であり、九男または十男とされる信照が1546年生まれなので、信興は1540年前後が妥当でしょうか。
となると、この戦のときは30歳前後。まだまだ将来有望な弟を失ったことで、信長がいかにショックを受けたか。想像に難くありません。
長島も本願寺や延暦寺同様、後に織田軍が大々的に攻めることになります。
これらの戦については「信長の残虐性の象徴」として語られる事が圧倒的に多くなっていますが、信長も大切な家族や家臣を彼らに奪われていたのです。
戦国のならいとはいえ、なんとも無情な気分になりますね……。
信興の件を、信長がいつ知ったかは定かではありません。それに対する反応も、信長公記には書かれていないのです。
22日に六角義賢と和睦しているため、このあたりで他の報告などと一緒に知った可能性もありますが。
朝倉から和睦をしたいと泣きついてきた!?
11月25日。
堅田(大津市)の水軍を率いる、猪飼野正勝(猪飼昇貞)・馬場孫次郎・居初又次郎が信長に味方しました。
彼らは六角氏→浅井氏と主を変えてきたのですが、ここに至って織田方につくことを決めたようです。
これに応じ、この夜、堅田へ千人の兵を増派したところ、越前(朝倉)方に攻め込まれて戦闘になります。
各所で応戦し、討ち取った者も多かったようですが、織田方の被害も大きく、快勝とはいえない状況でした。
中でも、坂井政尚と浦野源八親子の活躍がめざましかったと伝わるのですが、政尚はこのときの戦で討死したとされます。
奇襲に成功したのは越前方です。
普通、こういうときは勢いに乗って織田軍へ決戦を申し込むなり、勇ましい選択をするものですが……なんと、朝倉義景は「信長と和睦したい」と将軍に泣きつきました。
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寒さと雪が強まってきたことにより、本国への帰路や連絡・輸送などが心配になったのでしょうか。旧暦11月末=新暦12月末ですから、自然ではありますが……どうにもこうにも間が悪いというか、今更という感は拭えません。
足利義昭はこれを容れて、和睦調停を信長に申し入れます。
信長自身としてはやはり決戦を選びたいところ。
しかし、11月29日に義昭が三井寺(大津市)まで来て説得しにかかったために断りきれず、不本意ながらも和睦を結ぶことになりました。
状況だけ考えれば、織田軍も相当苦しかったと思うのですが……。信長礼賛の信長公記だけに、いささか強がりも入っているという印象は拭えません。
いずれにせよ和睦は和睦です。
野田福島の戦いから4ヶ月も戦い、実りナシ
和睦が成立したのは12月13日のことでした。
朝倉方からの条件は、次の通りです。
・織田方は琵琶湖を渡り、勢田(大津市)まで退くこと
・浅井朝倉軍が高島(高島市)へ退くまで、織田方から人質を出すこと
これに従ってまず織田軍が撤退し、その後浅井・朝倉軍が山を降り、この戦は終わっています。
信長が岐阜城へ帰ったのは、12月17日のことでした。
包囲などの帰還も含めると、8月に野田城・福島城の戦いに臨んでから、おおよそ4ヶ月戦をしていたことになります。
それでほとんど得たものがなく、家臣や弟を失っただけ……となれば、信長の無念や怒りも想像できますね。
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信長公記をはじめから読みたい方は→◆信長公記
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
『戦国武将合戦事典』(→amazon)