朝倉景鏡

一乗谷朝倉氏遺跡

浅井・朝倉家

信長を頼り義景を裏切った朝倉景鏡~越前の名門一族はこうして滅亡した

越前の戦国大名と言えば朝倉義景

グズグズとした優柔不断な人物としてもお馴染みで、大河ドラマ『麒麟がくる』ではユースケ・サンタマリアさんが非常に味のある演技をされてましたね。

人の尊厳を軽んじる一面があったり、二枚舌な一面があったり。

まさに、信長に滅ぼされる人物としてピッタリ――ではありますが、実のところ朝倉家が滅亡したのは義景だけの責任とも言い切れません。

むしろ、朝倉家を滅亡させた最大の戦犯は別にいるとされます。

それが朝倉景鏡(あさくらかげあきら)。

義景の従兄弟にして、朝倉軍を率いていた越前における有力者の一人ですが、『麒麟がくる』の劇中では「真っ赤な舌を出し、義景にムゴい対応で死に追いやった」姿が非常に印象的でありました。

そんな朝倉景鏡は、史実でも「滅亡の戦犯」とされ、天正2年(1574年)4月14日に自害へ追い込まれています。

本稿ではその生涯を振り返ってみましょう。

 


朝倉景鏡は御家騒動に敗れた家の子

朝倉景鏡の生年については、よく分かっていません。

彼の父についても詳細は不明ながら、朝倉孝景(義景の父)の弟・朝倉景高ではないか?という説が有力。

つまり景鏡は、後の朝倉家11代当主・朝倉義景のイトコに当たると思われます。

文字だけではわかりにくいので、系図で確認しておきますと……。

9代当主の朝倉貞景を祖父として、最後の当主となる11代朝倉義景とイトコの間柄。

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つまり景鏡も、一門衆として朝倉家を支える重要な立場になりますね。

戦国大名の一門衆というと、その結束力が素晴らしい例として、後北条氏が例に挙げられたりします。

北条早雲から始まり、わずか三代で関東を制覇した後北条氏。

関東各地に散らばった兄弟親類たち(北条幻庵・北条綱成・北条氏照など)、彼ら一門衆によって支えられたからでした。

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しかし、戦国当時、こうしたケースはむしろ稀。

大河ドラマ『麒麟がくる』で描かれた織田信長織田彦五郎、あるいは織田信勝との争いのように、兄弟や親類というのは多くの場合、御家騒動の火種となっています。

実は、孝景&景高兄弟もその例外ではありません。

 


些細な失敗を兄に付け込まれ……

父・朝倉貞景の長男と次男として生まれた孝景と景高。

二人は、家中を揺るがす御家騒動を引き起こしていた可能性が近年指摘されています。

景高は大野(現在の福井県大野市)の郡司という高い地位につき、かつ武勇でも名を轟かせた武将であったと目され、兄をしのぐ力をもって反逆心を隠さなかったからか、あるいはそれゆえ疎まれたのか。

孝景との関係はイマイチでした。

そんな折、景高は、幕府が主催する

【楊弓の会(ようきゅうのかい・小さな弓を使った貴族たちの遊び)】

に参加。そこで何らかの失態を演じたようで、厳しく咎められる事件が発生します。

これを喜んだのが孝景でした。

目の上のたんこぶが失敗したのをこれ幸いにと幕府に追放願いを要求。

ゴタゴタの末、結局、景高は隣国の若狭に逃れ、もともと孝景らと激しく対立していた本願寺衆徒と結びつきます。

北陸は【加賀一向一揆】もあるように、何かと本願寺勢力の強いところ。

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景高もこれを利用して逆襲を試みたのですが、最終的にこの目論見は失敗に終わり、居場所を失った景高は、実に遠く九州まで落ち延びていったとされます。

一乗谷朝倉氏遺跡

 


自身は義景の重臣に位置づけられた

父・景高が没落していったのだから、当然、息子の景鏡もゼロからのスタートになったのだろう。

そう思いたくなりますが、不思議なことに景鏡は朝倉家中で極めて高い地位を手にしました。

父と同じく大野郡司(大野エリアの支配者)の職に就任。

永禄9年(1566年)には幕府から式部大輔(しきぶのたいふ)という官職を与えられています。

景鏡は、義景から見れば従兄弟にあたるので特に違和感がないといえばないのですが、しかし、父・孝景にとっては反逆者であった景高の子が、なぜこのような地位につけるのか。

実際、越前朝倉氏について数多くの論文を出されている松原信之氏も、この点を「いささか不自然さは感じられる」と指摘しています。

景鏡が厚遇される理由――。

私なりに考えられるのは、経験や人脈、血脈です。

若年の身で家督を継いだ義景にしてみれば、少々忠誠心に不安があっても、血筋の良いイトコを重臣として置きたい。

朝倉家には稀代の名将・朝倉宗滴がおりましたが、すでに70歳を超える高齢者であり(実際、79歳で逝去)、もう少し若くて経験豊富な人物を重用したいと考えたはずです。

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また、景高が去った大野郡エリアが「アンチ義景」に傾くのを防ぐ狙いもあったでしょう。景高の子を据えておけば、安定した支配体制を構築できます。

いずれにしても、陪臣の身から重臣格に上りつめたことは確かな景鏡。

「父の失態をもってしても、私を厚遇してくれるのですか!」と奮起し、粉骨砕身働いて朝倉家を支えた――とは、なりませんでした。

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