大河ドラマ『豊臣兄弟』で茶々と秀吉の婚姻が描かれました。
ご存知、彼女は浅井三姉妹の長女であり、幼い妹たちのためにも自ら豊臣家に入った印象でしたが、ならば次女の初と三女の江はそれぞれどんな相手に嫁いだのか。
茶々は淀殿と呼ばれるようになり、悲劇的な最期を迎えたことはよく知られています。
本記事では彼女を含め、初と江の生涯も簡潔に見て参りましょう。
三姉妹を引き取った羽柴秀吉
思えば浅井三姉妹は戦国時代の荒波に翻弄された代表的な姫と言えるかもしれません。
父の浅井長政は織田信長と対立し、天正元年(1573年)に小谷城で自害。
母・お市の方の再婚に伴い移った北ノ庄城では、天正十一年(1583年)4月24日、柴田勝家と共に母は自害して亡くなります。

お市の方/wikimedia commons
その後の浅井三姉妹はどうなったのか?
ドラマでも描かれたように、羽柴秀吉に引き取られたと伝わります。
研究者の黒田基樹氏は著書『お市の方の生涯』の中で、このとき茶々は15歳、初は13歳、江は11歳だったと記しており、すでに茶々は結婚適齢期とも言える年齢。
三人のその後の具体的な居所は不明ですが、引き続き秀吉の庇護を受けていたのでしょう。
茶々は秀吉の「別妻」になった
長女の茶々が嫁いだのは、言うまでもなく庇護者である羽柴秀吉です。

淀殿(茶々)/wikipediaより引用
研究者の福田千鶴氏は著書『江の生涯 徳川将軍家御台所の役割』の中で、正妻の寧々とは別に迎えた妻を「別妻(べっさい)」と位置づけています。
茶々は、秀吉が迎えた別妻の一人。
淀殿と呼ばれるようになった彼女は秀吉の子を二人産みました。
結婚の時期は説が分かれていてハッキリしませんが、まず長男の鶴松が生まれたのは天正十七年(1589年)5月のこと。

豊臣鶴松/wikipediaより引用
秀吉の跡継ぎの母として、茶々は寧々に次ぐ地位を確立しました。
しかし、鶴松は3歳で亡くなってしまいます。
彼女が恵まれていたのは、文禄二年(1593年)8月に次男の秀頼を出産したことでしょう。
秀吉には茶々以外にも別妻がいましたが、嫡男の母となったのは茶々だけでした。
羽柴家の跡継ぎには織田家の血筋が求められたため、茶々だけが子を産むことを認められた可能性があるとされています。
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天下人・秀吉の跡継ぎとして生まれてきた茶々の子――それが豊臣家としては何より大事なことでした。
次に、次女の初を見てみましょう。
初は、いとこの京極高次に嫁いだ
初の結婚相手は京極高次でした。
高次の母は、浅井長政の姉とされていて、二人はいとこ同士となりますね。

京極高次/wikipediaより引用
茶々が秀吉の別妻になっていたと確認できる天正十四年(1586年)以前に、初が高次と結婚したと推測されています。
一方、同十二年(1584年)の可能性が高いとする見方もありますが、どちらも当時の史料では確認できません。
問題は高次の武将としての資質でしょう。
実はこの高次、本能寺の変のあと、明智光秀に味方してしまいます。
山崎の戦いで光秀が敗れると、次に頼ったのが柴田勝家であり、こちらも再び秀吉に滅ぼされてしまう。
とことん誤った道を選んだ結果、牢人となりました。
それがなぜ、織田・浅井の血を引く初と結婚できたのか?
高次が赦免されたのは、妹の松の丸殿が秀吉の別妻になったためだとみられています。

松の丸殿(京極竜子)/wikipediaより引用
結局、高次は天正十二年(1584年)に秀吉の直臣となり、その後に初と結婚した可能性が高い。
三姉妹の中で初の夫が見劣りするのは、結婚が茶々より早く、身内から選ばれたためだと推測されています。
高次は初との結婚によって豊臣政権の親類衆に位置づけられ、慶長年間には参議まで昇りました。
そして最もややこしいのが三女の江(ごう)でしょう。
江は「3度結婚した」のか
三女の江は、結婚の数え方が一番ややこしい人物です。
江戸時代の史料や通説では、最初の夫は尾張の佐治一成(当時の名は信吉)とされます。
佐治家は、お市の方の姉・お犬が嫁いだ家であり、信長と同じ血筋と言えますが、信吉がお犬の実子だったかどうかまでは分かっていません。
ともかく織田家と縁の深い家から選ばれた婚約相手ではありました。

佐治一成/wikimedia commons
しかし、です。
福田氏と黒田氏はいずれも、当時の史料に結婚の痕跡がないことなどから、江と一成は縁を約束しただけで、実際に嫁ぐことはなかった可能性が高いとみています。
では、江が実際に嫁いだのは誰だったのでしょうか?
実質的な初婚にあたるのが、秀吉甥の羽柴(小吉)秀勝でした。
秀吉の姉とも(日秀尼)の子であり、時期は天正十三年(1585年)10月ごろと推定され、当時の江は13歳。
ところがこの秀勝、文禄の役で朝鮮に渡り、文禄元年(1592年)9月9日に巨済島で亡くなってしまいます。
つまり江は未亡人となったのですが、次の結婚相手で大当たりを引きます。
徳川秀忠です。

徳川秀忠/wikipediaより引用
言わずもがな、江戸幕府の二代将軍であり、二人が結ばれたのは文禄四年(1595年)9月17日のこと。
江は23歳、秀忠は17歳でした。
上記の日付は江戸時代に入ってから記されたものであり、結婚当時の史料では確認できませんが、逆に否定される証拠もありません。
ちなみに江戸時代の史料によると、秀勝と死別した江が、九条道房と結婚したと記すものもあります。
これは明確な誤りとされています。
江の娘・豊臣完子(さだこ)が九条忠栄(のち幸家)に嫁いだ一件と混同しているとのことです。
三姉妹の結婚を差配した秀吉
浅井三姉妹の嫁ぎ先をあらためてまとめてみましょう。
この結婚で三人とも、織田家一族にふさわしい羽柴政権の中枢を担う立場になったとされます。
茶々は羽柴家を、江は徳川家を担い、初は両者を支えて取り持つ存在になったというわけです。
このうち江と佐治信吉との婚約だけは信長が決めた可能性があり、ほか三姉妹が実際に結婚した相手は、いずれも秀吉の差配で決まりました。

豊臣秀吉/wikimedia commons
つまりは豊臣政権を固めるための役割を担わされたわけですが、政治的に抹殺されて放置され、生きるのも一苦労という状況よりはマシだったのかもしれません。
なお、大坂の陣で豊臣家と徳川家が争うことになると、姉妹はその両側に立つことになります。
後世から見るとなんとも心苦しいことに、最後まで時代に翻弄された浅井三姉妹でした。
なお、秀吉と茶々がいかにして結婚に至ったか?その経緯は以下の関連記事をご覧ください。
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秀吉に茶々との結婚を勧めたのは秀長だったのか?32才差夫婦が結ばれた経緯
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参考文献
- 福田千鶴『江の生涯 徳川将軍家御台所の役割』(2010年11月 中央公論新社)
- 黒田基樹『お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像』(2023年1月 朝日新聞出版)


