大河ドラマ『豊臣兄弟』では数秒のナレーションで終わり、物議を醸した「九州征伐」。
果たして豊臣軍の楽勝だったのでしょうか。
相手は、義弘や家久などの名将を擁する島津軍。
破竹の勢いで大友家や龍造寺家の領地を奪い、九州の大部分を制していただけに、豊臣軍とてそう簡単な戦いとはいかないのでは?
大河の主役・秀長はどんな働きをしたのか?

豊臣秀長/wikimedia commons
実は豊臣秀長の大きな見せ場でもあった、九州征伐を振り返ってみましょう。
緒戦に大敗の豊臣軍
秀吉が島津義久に九州での停戦を命じたのは、天正十三年(1585年)10月のこと。
四国征伐に勝利して、関白にもなっており、すでに秀吉の天下で決まっていたも同然の頃です。
それでも島津軍は進軍を止めず、大友家の豊後(大分県)へ攻め込んでいたため、秀吉はまず仙石秀久率いる四国勢を先鋒隊として送り込みました。
しかし、これが大失敗。
軍をあずかる仙石秀久が愚策を強行して、天正十四年(1586年)12月12日「戸次川の戦い」で島津軍に大敗してしまうのです。

仙石秀久/Wikipediaより引用
長宗我部元親の大事な嫡男・長宗我部信親や、三好一族の十河存保までもが討死。
仙石秀久は戦後に改易へ追い込まれる記録的な敗戦となりましたが、これも当然ドラマでは触れられてないんで……うーん、もったいない!
ともかく大事な緒戦に敗れた豊臣軍。
翌春には、かねて出陣を予定していた豊臣秀長が九州へ向かいます。
20万もの大軍をどう移動させるか
天正十五年(1587年)2月10日、豊臣秀長は大和郡山城を出発します。
一言でそう済ますのは簡単ですが、実際は凄まじい大仕事です。
行き先は九州で、秀長軍が目指すのは日向(宮崎県)。
各地から動員された豊臣軍は総数20万規模とされており、秀長の軍勢が近所の淀川を渡ることですら一苦労でした。
数日前から船の手配を準備していた記録が残っており、こうした兵站業務全般を得意とした石田三成や増田長盛、長束正家らの豊臣五奉行が秀吉に評価されるのも合点がいきます。

石田三成/wikipediaより引用
秀吉は、本能寺の変後だけでも、以下のように
本能寺の変
↓
中国大返し
↓
山崎の戦い
↓
賤ヶ岳の戦い
↓
小牧・長久手の戦い
↓
紀州征伐(紀州攻め)
↓
四国征伐(四国攻め)
↓
越中征伐(富山の役)
↓
九州征伐
↓
小田原合戦
↓
奥州仕置
↓
文禄・慶長の役
大規模な戦いを重ねており、こうなると最も大事なことは「兵・武器・食糧」の3点セットを現地へ無事に送り届けることでした。

一人の強い武将より、100人1000人の兵とメシです。
それを重視したからこそ豊臣軍は強かったのでしょう……と脱線はここまで、話を元に戻しまして。
淀川を渡った秀長軍は、やがて長府(山口県下関市)に到着。
3月6日には海を渡って豊前小倉(福岡県北九州市)に陣を構えたと言いますから、奈良から北九州まで1ヶ月近くを要しました。
そこから豊後へ南下していくわけですが、このとき兄の秀吉は何をしていたのか?
兄が九州の西を進み 弟は東サイドを南下
豊臣秀吉も九州征伐の軍を率いていました。
西側ルートが秀吉軍で、東側ルートが秀長軍。
兄弟は、九州を東西に分かれて進んだのです。

豊臣秀吉/wikimedia commons
研究者の和田裕弘氏は著書『豊臣秀長 「天下人の賢弟」の実像』の中で、豊臣軍は約20万人もの軍勢を動員していたと指摘。
少し詳しく見ますと、秀吉が筑前・筑後・肥後を経て薩摩へ向かい、秀長は豊後から日向へ、と2つのルートで並行して南下していたんですね。
秀長が率いたのは、もちろん自分の家臣だけではありません。
毛利勢や宇喜多秀家、黒田官兵衛など、中国・四国エリアの諸将を加えた大軍でした。
いかに島津家とて太刀打ちできるわけもない。
あとは造作もなく……と思いきや、すべてが秀吉の思惑どおりに進んだわけではありません。
3月15日、足利義昭の使者が豊後府内(大分市)に入って島津義弘らと会うと、島津勢はその日のうちに豊後からの撤退を決めました。

足利義昭/wikimedia commons
豊臣の大軍を慣れない豊後で迎え撃つのは不利と見たのでしょう。
秀吉としては、島津勢を豊後府内にとどめておき、本隊が着陣してから一気に取り囲んで討ち取るつもりでした。
その構想どおりに進まなかったため、3月20日、黒田官兵衛を強く叱っているほどです。
島津勢は日向へ下がり、秀長軍はこれを追って南へ進みました。
そしてその先で「根白坂の戦い」が勃発します。
一体どんな戦いだったのか?
根白坂の戦い
天正十五年(1587年)4月6日、秀長軍は耳川(宮崎県日向市)で島津勢を破り、高城(宮崎県木城町)へ追い込んで包囲しました。
城を囲む攻城軍にとって、最も厄介な相手とは?
外から城を助けに来る敵、つまり援軍です。
城の中の兵と、駆けつけた援軍に挟まれれば、囲んでいる側が逆に危なくなってしまう――そこで秀長は、高城と財部城(宮崎県高鍋町)の間で実に51か所もの陣所を築きました。
城を閉じ込める壁であり、援軍を受け止める盾でもある。
51の陣所は、その両方の役目があり、こうした戦い方は三木城や鳥取城を包囲するときに散々繰り返してきたことですから、もはや豊臣軍では十八番の戦術と言えるでしょう。
しかも、追い込まれる島津家が、一枚岩ではありませんでした。
研究者の新名一仁氏は著書『「不屈の両殿」島津義久・義弘』の中で、当主の義久が義昭を介した和睦に応じる考えだった一方、弟の義弘は豊臣の本隊と戦わずに講和することに抵抗した、と説明しています。

島津義久像/wikipediaより引用
家の存続を第一に考える当主の義久。
武士としての面目を重んじる次男の義弘。
両者のキャラクターの差がそのまま出たような状況ですね。
そして4月17日、義弘率いる島津勢は高城を救うべく、南条元続や宮部継潤らの陣に夜襲をかけました。

宮部継潤イメージイラスト
「根白坂の戦い(ねじろざかのたたかい)」の始まりです。
秀長の本陣からも藤堂高虎や羽田正親らが救援に駆けつけ、激しい戦いとなりました。
宮部らの危機を救おうとしなかった秀吉家臣の尾藤知宣(びとう とものぶ)は、このときの振る舞いが原因で後に改易されています。
結局、島津勢は豊臣の陣を破れず、島津歳久の養子・忠隣らを失って退いていきました。
高城を救い出す望みは、ここで絶たれたと言ってよいでしょう。
では、敗れた島津に対し、秀吉と秀長はどのような処置を取ったのか?
降伏後も島津は終わらない
根白坂の戦いのあと、豊臣秀長は使者を送って島津義久に降伏を勧めました。
4月下旬、島津家の老中・伊集院忠棟(いじゅういん ただむね)らが秀長の陣を訪れて義久の赦免を願い、高城なども引き渡されます。
義久は鹿児島へ戻って出家し、天正十五年(1587年)5月8日、川内の泰平寺(鹿児島県薩摩川内市)で秀吉に対面して降伏しました。
これで一件落着……とはいきません。
弟の島津義弘は、まだ従っていなかったのです。
さすが鬼島津っす。

島津義弘/wikipediaより引用
秀長は、家老の桑山重晴らを通じて辛抱強く出頭を促し、ついに5月19日、野尻(宮崎県小林市)の陣で義弘と対面しました。
その間にも秀長は、大隅や薩摩の各地に禁制(軍勢の乱暴を禁じる保証書)を出し、治安を保つ役目も果たしています。
研究者の黒田基樹氏は著書『羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像』の中で、秀長は島津家の領国の処置を取り仕切る立場になっていた、と指摘しています。
戦後の領地の割り振り(国分)も、すんなりとは決まりませんでした。
5月13日に秀吉が秀長へ示した案では、大隅は長宗我部元親に与える予定でしたが、25日には義弘へ与えられ、義弘の子・島津久保にも日向の一郡があてがわれます。
島津家は薩摩・大隅と日向の一部を残し、豊臣政権のもとで領地と立場を組み直すことになったのです。
このとき秀吉が義弘を取り込もうとした経緯については以下の関連記事からご覧ください。
-

秀吉に引き抜かれた武将は誰だ?石川数正以外にもいた他家の有力武将
続きを見る
秀長最大の見せ場だったのに
九州征伐において、豊臣方が優勢だったのは間違いありません。
それでも大軍を移動させるのは尋常ならざる大事業です。
船の手配に始まり、城の包囲、援軍への備え、降伏の交渉、そして戦後の治安まで、次々と仕事が待っていました。
戦いに勝つだけでなく、勝ったあとの九州を形にするところまで。
九州征伐とは、秀長最大の見せ場でもあっただけに、ナレーションで済まされたのは残念という主張は、正直、その通りかと思います。

島津義弘と豊臣秀長/wikimedia commons
これでは何のために秀長を主人公としたのか?
強豪の島津軍と戦う――それは、ドラマ序盤で活躍した宮部継潤にとっての出番でもあり、集大成にもできたはず。
なお、根白坂の陣を守った宮部継潤と、秀長を支えた家臣たちについては、以下の記事をご覧ください。
-

宮部継潤とは何者か?秀吉に調略され秀長のもとで重用された近江の武将
続きを見る
-

羽柴秀長の家臣団|大和入り後の筆頭家老は藤堂高虎ではなかった
続きを見る
-

秀吉に引き抜かれた武将は誰だ?石川数正以外にもいた他家の有力武将
続きを見る
参考文献
- 和田裕弘『豊臣秀長 「天下人の賢弟」の実像』(2025年10月 中央公論新社)
- 新名一仁『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』(2021年8月 KADOKAWA)
- 黒田基樹『羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像』(2025年9月 平凡社)



