佐々成政と豊臣秀吉の肖像画

佐々成政(左)と豊臣秀吉/wikipediaより引用

豊臣家

秀吉肝いりの北野大茶会はなぜ1日で終わった?本当に佐々成政のせい?

天下人が自ら茶を点て、町人や百姓まで招いたのに、わずか1日で終了――。

天正十五年(1587年)10月1日、豊臣秀吉が京都で開いた北野大茶会には、いまなお不思議な顛末が謎とされています。

本人肝いりで始めた10日間のイベント予定だったのに、肥後の国衆一揆の知らせを受け、秀吉自ら中止にした、といわれるのです。

九州平定後に肥後を任された佐々成政が、地元の国衆に反乱を起こされた。

そのため、せっかくの大茶会を台無しにしたのは成政のせいだ!と囁かれ、大河ドラマ『豊臣兄弟』でもそう描かれましたが、果たしてそれは本当のことなのか。

佐々成政の肖像画

佐々成政/wikipediaより引用

北野大茶会が1日で終わった経緯を振り返ってみましょう。

 


百姓まで招いた天下人の茶会

豊臣秀吉が京都の聚楽第へ入ったのは天正十五年(1587年)9月13日のこと。

そこからほど近い北野天満宮と周辺の松原で北野大茶会は開かれました。

誰でも参加できる――。

そんな謳い文句で知られる茶会であり、高札に記された参加条件を見ると、この催しにかける秀吉の意気込みが伝わってきます。

茶の湯に熱心なら、若党・町人・百姓でも参加してよい。

釜・釣瓶・茶碗を1つずつ持参すること。

茶がなければ「こがし」でもかまわない。

茶の心得があれば、日本はもちろん唐国(中国)の者でも来てよい。

「こがし」とは米や麦を煎ったものに焼塩を加え、湯を入れて飲むもので、お茶が用意できなくても参加OKということです。

つまり、単に茶を飲みに行く場ではなく、自分も茶を用意しなければなりません。

参加者は自分の茶席も構え、お互いに“もてなす”という趣向だったのです。

そのために秀吉自身が用意したのが、方々から集めた名物茶道具だけでなく、組立式「黄金の茶室」まであったのですから、成金趣味が凄いというかなんというか……。

黄金の茶室(MOA美術館)

黄金の茶室(MOA美術館)/wikipediaより引用

いずれにせよ天下人の席で一服できるとなれば、茶好きには見逃せない催しではあります。

それがなぜ、わずか一日で……。

本当に佐々成政のせいだった?

 

なぜ佐々成政の名前が出る?

確かに同時期、佐々成政が治める肥後(熊本県)で国衆の一揆が勃発しました。

その知らせに機嫌を損ねた秀吉が、北野大茶会を中止したと、これまで広く語られています。

豊臣秀吉の肖像画

豊臣秀吉/wikimedia commons

手がかりとなるのが、奈良興福寺の僧・多聞院英俊(たもんいん えいしゅん)の日記『多聞院日記』です。

同年10月4日に「京都の茶の湯は1日で終わって上洛衆が奈良へ戻ってきた」とあり、それに続いて「西国で佐々成政が滅んだらしい」という噂が記されています。

成政の話はウソかマコトか――書き手の英俊自身も疑うような書き方でした。

いずれにせよ大茶会の終了と、平定したばかりの九州で起きた不穏な情報が、同じ日の日記に並んでいる。

両者を結び付ければ、秀吉が肥後の事態を重く見て、2日目以降の茶会を取りやめたという筋書きになるでしょう。

しかし、研究者の大嶌聖子氏は『秀吉研究の最前線 ここまでわかった「天下人」の実像』の中で、茶会と肥後の話を結び付けるのは早計だと指摘しています。

2つの事象が近しく並んでいるのは、あくまで奈良にいた英俊の日記の中。

茶会が終わったことと成政の噂が届いたことを、そのまま原因と結果として結び付けることはできません。

そこで注目したいのが秀吉が出した高札です。

そもそもイベントの開催日程については、どう記されていたのか?

 


高札に残る「天気次第」

豊臣秀吉が告知した日程には、見落とせない条件が付いていました。

十月朔日より十日の間、天気次第

10月1日から10日までの間で“天気次第”とあり、必ず毎日開くとは記されていません。

実は北野大茶会には、京都・吉田神社の神職として知られる吉田兼見も参加しており、日記『兼見卿記』に当日の様子が記されています。

吉田兼見の肖像画

吉田兼見/wikipediaより引用

それによると、兼見は「何日もかかるかと気をもんでいたが1日で済んで安堵した」という趣旨のことを記しています。

別の公家・山科言経の日記からも、当日は晴れだったことが明らか。

そこで大嶌氏は、天候に恵まれて1日でイベントを終えられたのであって、2日目以降を中止したわけではないと解釈しています。

日程の読み方が曖昧で難しいんですね。

確かに「客が集まらず、不人気だったため秀吉がキレて一日で終えた」というストーリーは“それっぽい”ので面白い。

しかし、そうとは決められないのです。

イベントにはわずか「803人しか来なかった」とも指摘されますが、これは秀吉・千利休・津田宗及・今井宗久の四茶席で、茶をいただいた人数とされる数字です。

客はくじで席を割り振られ、例えば兼見は今井宗久の席に入っています。

今井宗久の肖像画

今井宗久/wikimedia commons

803人が会場全体の来場者数を示すわけではありません。

実際、秀吉が夕方に公家衆の小屋を訪れたときには「一段御機嫌」だったとも記されていて、イベントが不調だったり、肥後一揆が影響したような雰囲気は感じられない。

成政のせいで中止したとまでは言い切れない。

ただし、翌日、片付けが始まった北野で、引き続き茶会を開く者もいました。

いったい誰がそんな真似を?

 

終了後も茶会を続けたのは誰だ?

ほかでもない、豊臣秀長です。

豊臣秀長の肖像画

豊臣秀長/wikimedia commons

和田裕弘氏は『豊臣秀長 「天下人の賢弟」の実像』の中で、翌2日にも秀長自ら奈良の南都衆に茶を振る舞ったと記しています。

秀吉発案のイベントではなく、秀長自身の茶会です。

自国の茶人をもてなすため、地元の人々へ一服を点てていたんですね。

秀長の気遣いっぷりが浮かんできます。

なお、ドラマの中では、北野大茶会の夜に鍋丸という少年が現れ、秀長の養子となりましたが、果たしてその描写はどんな史実にそったものなのか。

よろしければ以下の関連記事も併せてご覧ください。

豊臣兄弟鍋丸イメージイラスト
鍋丸は誰の子だったのか?知られざる秀長の養子騒動|豊臣兄弟史実解説第42回

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くじを引いて茶席に入った吉田兼見と、席主を務めた津田宗及については、以下の記事をご覧ください。

吉田兼見
吉田兼見と『兼見卿記』光秀と親密だった神道家の日記には何が書かれてる?

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津田宗及『贈答百人一首』
信長に抵抗した堺の豪商・津田宗及|なぜ織田家に重用されたのか

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参考文献

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    五十嵐利休

    武将ジャパン編集管理人。 1998年に早稲田大学を卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として約30年活動。歴史関連からエンタメ書籍まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、編集責任者として累計4,000本以上の記事の編集・監修を担当。 月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・古代・幕末・世界史の広範な執筆とSEO設計に精通。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆武将ジャパン(団体)国立国会図書館典拠データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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