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【正親町天皇】
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焼き討ちされた比叡山には弟の覚恕もいた
延暦寺は浅井・朝倉への協力を続けておりました。
そのため信長は、延暦寺に対して
「浅井・朝倉への協力をやめれば、こちらから手荒なことはしない」
と幾度も伝えたのですが、寺側がこれを撥ねつけます。
結果、元亀二年(1571年)9月、比叡山焼き討ちを強行したのです。
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今日では
「当時の延暦寺にはあまり僧侶たちが住んでおらず、麓の町にいたので、信長が焼いたのはそちらである」
という説も出てきていますね。
とはいえ、当時の天台座主(天台宗と延暦寺のトップ)は、正親町天皇の弟である覚恕(かくじょ)ですから、天皇も気が気でなかったでしょう。
焼き討ちの当日、覚恕は朝廷で「織田家との和解を如何にして進めるか」という相談をしていたので難を逃れていますが……。
そのあたりの事情もあってなのか。
焼き討ち直後に信長が上洛すると、正親町天皇は飛鳥井正教を勅使として派遣。口頭での伝達だったようでハッキリした記録がながら、その後、信長は朝廷への収入を融通しています。
信長は、あくまで不誠実な勢力(=延着時))を罰しただけであり、京都市中に害を成すつもりはない――ということを主張したかったのでしょうか。
同年10月に洛中洛外の領主から米を集めて、京都内で貸し付けを行わせ、その利子を朝廷へ献上させたのです。
その利子が毎月十三石だったというのですから、相当な量です。
一石は「大人一人が一年食べていける量の米」です。
つまりは「大人13人が一年食べていける量の米を毎月朝廷に献上させた」わけですから、相当な財政改善になったことでしょう。
改元は朝廷の一大事なれば
信長との結びつきが自然と強まっていく一方、正親町天皇と義昭との関係は少しずつ下降線を描いていきます。
元亀三年(1572年)4月、正親町天皇が義昭へ改元の費用捻出を依頼したところ、なんと一年以上も放置されたのです。
後に信長は【十七か条の意見書】で義昭の行為を咎めています。
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義昭としては
「正親町天皇と信長が結託して、自分の地位を脅かそうとしている」
と思ったのかもしれません。
ただ、将軍の立場としては、天下のことを考えなければならないもの。
特に「改元」というのは、非常に大切な取り決めです。
明治以降は一世一元の制(天皇一代につき元号一つ)となったため、現代の我々にはピンときにくいかもしれませんが、明治以前は非常に重要視されていて、いわばスケールの大きな験担ぎでした。
天災や戦乱などが多いときは、改元をして世の中の流れを良くしよう――それがセオリーであり、無視されては朝廷として立つ瀬がありません。
しかも元亀四年(1573年)になると、義昭は朝廷へ品々や資金の献上を放棄。
同年4月には信長と義昭の不和が顕在化し、信長が上京に放火まで行う事態に発展しました。
これはさすがにやりすぎで正親町天皇の勅命で和睦が結ばれますが、正親町天皇は義昭に「内裏付近へ武士を駐在させないように」と命じました。
そして同年7月。
義昭は京都を出て槙島城へ退去し、程なくして反信長の兵を挙げたところ織田軍に攻められ、人質を提出して同所から退去することになります。
実質的に、ここで室町幕府は滅亡しました。
正親町天皇と信長で腹の探り合い
こうして、正親町天皇は信長との結び付きを強めていく……といいたいところですが、実際にはここから腹の探り合いが本格化していったようなフシがあります。
険悪というほどではないものの、完全な協力関係ともいい難い、そんな絶妙なやりとりが続くのです。
まずは天正元年(1573年)12月。
信長から正親町天皇に対して【譲位を】申し入れたといいます。
これは正親町天皇が邪魔だからというわけではなく、本来は存命中に退位し、新しく位に就いた天皇を後見するという形が望ましいからです。
朝廷があまりに貧乏で費用面などの問題も重なったため、正親町天皇の曽祖父にあたる後土御門天皇の代から譲位は行われていませんでした。
しかし信長が言い出すからには、費用の準備も万全です。
「翌天正二年の春に、信長が譲位に伴う費用を献上する」ということで話がまとまり、正親町天皇も喜んでいたとか。
しかし実際に年が明けてみると、不測の事態がいろいろと起きてしまいました。
朝倉家を滅ぼし一度は織田家の勢力圏になった北陸で【越前一向一揆】が蜂起し、信長はその対処にあたらなければならなくなったのです。
蘭奢待の切り取りも同年に実行されています。
正親町天皇は不本意だったようなので微妙なところですが……。
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翌天正三年(1575年)には譲位の話はあまり出てこず、正親町天皇と信長は、お互いのためになるようなことをして結びつきを強めていきました。
3月には信長が公家・門跡を対象とした徳政令を発令。
8月には越前再攻略中の信長に対し、正親町天皇から陣中見舞いの勅使が派遣されました。
なんとも政治的なやり取りです。
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同年9月には、石山本願寺が三好康長・松井友閑を通じて信長に和議を申し入れています……が、これは”休戦”であって”終戦”ではありませんでした。
まあ、よくある話で翌天正四年(1576年)4月に本願寺が再挙兵しています。
これに対し正親町天皇は、信長の戦勝祈願を命じることで本願寺に圧力をかけました。
祈願がどこまで効いたか不明ながら、同年11月には神泉苑を整備し、祈祷場所として再興を狙おうと試みています。これは信長も承認しています。
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