神代の時代も含めて120人以上いる天皇。
現代で話題になるのは、歴史的な大事件があったとき皇位についていた方がほとんどですよね。
戦国時代の真っ只中、織田信長・豊臣秀吉と深く関わった正親町天皇もその一人でしょう。
近年は大河ドラマ『麒麟がくる』の影響もあってか、
「正親町天皇と信長や光秀はどんな関係だったの?」
なんてことも注目されているようです。
そこで本稿では、正親町天皇の事績に着目。

正親町天皇/wikipediaより引用
文禄2年(1593年)1月5日が命日となる、その生涯を振り返ってみたいと思います。
父は後奈良天皇 母は万里小路栄子
正親町天皇は、永正十四年(1517年)5月29日に、知仁親王(後奈良天皇)の第一皇子として生まれました。
年齢の近い人物としては、慶寿院(足利義輝・足利義昭の母で1514年生まれ)や北条氏康(1515年)、織田信光(信長の叔父で1516年)あたりでしょうか。
三英傑はそれぞれ以下の生まれですので
信長(1534年)
秀吉(1537年)
家康(1543年)
正親町天皇はその親世代といえますね。
母は万里小路栄子。
当時、夫の後奈良天皇はまだ践祚しておらず、栄子は大永二年(1522年)に亡くなっているため、息子の正親町天皇だけでなく後奈良天皇が皇位についた姿も見ることはできませんでした。
皇族や公家の夭折は珍しくないものの、時代背景を考えるとなんとも薄ら寒いところがあります。
というのも【応仁の乱】以降の京都はすっかり荒れてしまっていました。

応仁の乱が描かれた『真如堂縁起絵巻』/wikipediaより引用
戦火で町が焼かれ、皇室や公家の収入源である荘園は横領され、衣食住にも事欠く状態……なんて家が珍しくなかったのです。
後奈良天皇は、なんと【宸筆(天皇の直筆)】を売って生活費の足しにしていたほどでした。
幼かった正親町天皇も、
「自分で工夫して収入を得て、生活を安定させなければならない」
と強く思ったことでしょう。
元服10年後に織田家から資金献上
正親町天皇は、天文二年(1533年)12月に親王宣下を受け元服。
その十年後の天文十二年(1543年)、織田信秀(信長の父)が朝廷に内裏の修繕費用として四千貫文を献上してきています。

織田信秀/wikipediaより引用
それに対して正親町天皇がどう感じたのかは記録にありませんが、”尾張の織田”という名前は、当人の記憶にも残ったのではないでしょうか。
弘治三年(1557年)に父・後奈良天皇が崩御すると、天皇の位を受け継ぐ”践祚(せんそ)”をしました。
本来であれば、その直後に即位式を行うのですが……前述の通り、この時期の朝廷は手元不如意。
複数の大名から献金を受けなければ、重大な儀式を執り行うことができないほど困っています。
結果、即位式を行うことができたのは、践祚から三年後の永禄三年(1560年)のことでした。
献金した大名は以下の四人です。
毛利元就 二千貫
朝倉義景 百貫
三好長慶 百貫
北畠具教 二十貫
これに対し、正親町天皇は官職や位階の授与で報います。
毛利元就 陸奥守
毛利隆元 大膳大夫
朝倉義景 従四位下
三好長慶 修理大夫
北畠具教がこのとき官職を受けていないのは、彼が伊勢国司・北畠家の人間であること、既に天文二十三年(1554年)に従三位権中納言へ任官されていたことによると思われます。
その割には献金の額が少なく見えますが、これは当時の懐事情からみて致し方ないところでしょう。
一方、元就の献金額が文字通りケタ違いですよね。
原資は石見銀山からの収入と思われます。
石見銀山はこの時期、毛利氏と尼子氏の間で争奪戦が繰り広げられていて、その利益も行ったり来たりしていました。
正親町天皇の即位当時は、尼子氏が石見銀山を確保していましたが、それ以前に元就が権利を有していた頃の貯めておいた銀を、このとき使ったのでしょう。
政局に敏感だった?
こうして外部からの大きな協力を得て即位したためか。
正親町天皇は他者の動きや、天下の安寧に対して非常に敏感でした。
例えば、即位から間もない永禄四年(1561年)には自身が【辛酉の厄歳】となったため、般若心経を写経しています。
これは現在も京都の大覚寺に所蔵されているとか。
また、永禄八年(1565年)7月には、日本で初めてとなるキリシタン追放を試みています。
同年5月には、キリシタンに対して比較的好意的だった室町幕府十三代将軍・足利義輝が【永禄の変】で命を落としているため、それを利用したのかもしれません。

剣豪将軍と呼ばれた足利義輝/wikipediaより引用
この年の1月にルイス・フロイスが京都に入っており、彼もまた永禄の変の後に堺へ避難しているため、キリシタンたちにとってもこの事件は大きな影響があったのでした。
といっても、フロイスは翌年京都に戻ってきているのですが。
永禄九年(1566年)4月には、義輝の後継者に名乗りを上げた足利義昭に、従五位下・左馬頭の官位を与えました。
この時期はまだ、次の将軍が誰になるのかはっきりしていません。
対抗馬かつ三好三人衆に推されていた足利義栄がいました。
正親町天皇としては、どちらが将軍になっても問題のないように振る舞う必要があったのです。
信長を「古今無双の名将」と評す
将軍就任の動向に影響したのが織田信長です。
永禄十年(1567年)11月、信長が美濃攻略を成功させると、正親町天皇は「古今無双の名将」と称賛しました。
それだけでなく
「美濃・尾張二国の主になったのだから、相応の年貢を出してくれると嬉しい」
というような綸旨を出しています。

織田信長/wikipediaより引用
ぶっちゃけお金の催促ですが、この一件は
”信長による美濃&尾張の支配に対し、天皇がお墨付きを与えた”
といっても過言ではありません。
権威の後押しを得ることは、その後の織田家にとって悪い話ではなかったでしょう。
また、正親町天皇は息子である誠仁親王の元服費用も、信長に出してくれるよう頼んでいます。
これまた「誠仁親王の後ろ盾になってくれ」と言っているも同然。
ただし信長も、この時点ではまだ余裕があるとはいえない状況のため、綸旨を出されたことに対しては丁重に礼を述べながら、費用捻出についてはっきり返事をしていません。
そして永禄十一年(1568年)2月、歴史が動き始めます。
正親町天皇が足利義栄に将軍宣下をしたのです。

足利義栄坐像(阿波公方・民俗資料館蔵)/wikipediaより引用
次の将軍は、これにて義栄に確定!
そう思われた同年9月、信長が足利義昭を奉じて上洛。
宮中では「京都が焼かれる」と警戒していたそうですが、信長らは一旦入京した後、数日で摂津方面へ進撃したため織田勢に対する見方が一気に好印象となりました。
そして同年10月、正親町天皇は義昭に太刀、信長に酒などを下賜します。
信長はこのとき「宮中の懐事情が厳しいと聞きましたので」という理由で、銭一万疋を献上。その後で義昭に将軍宣下がなされ、室町幕府の将軍の座は義昭のものとなりました。
将軍宣下を受けた義栄が、その後亡くなっていたため、他に候補もいない状況でした。
しかも、物品等の献上もしてくれる信長が後ろ盾にいるわけです。京都に入ることもできなかった義栄と比べ、義昭のほうが正親町天皇としては信用できたでしょう。
ほぼ同時に、公家の旧領回復も義昭・信長に求めています。
権利を認めるから義務を果たせ、ともとれますね。
また、この年12月には信長が誠仁親王元服の費用を出し、元服式が行われました。
最初にこの話が出てから一年という間があったものの、正親町天皇や誠仁親王にとっては、信長に好印象を抱く理由になったのではないでしょうか。
三好勢が本圀寺を襲撃
翌年の永禄十二年(1569年)は、物騒な事件から始まりました。
年明け早々に三好三人衆が京都・本圀寺を襲撃したのです。

本圀寺の変を起こした三好三人衆の一人・岩成友通/wikipediaより引用
【本圀寺の変】と呼ばれるこの事件で襲撃されたのは足利義昭で、明智光秀や細川藤孝らの活躍で事なきを得ますが、正親町天皇や公家の人々はさぞ不安に感じたことでしょう。
知らせを受けた信長は直ちに上洛し、4月まで在京しています。
この在京の間、信長は複数回にわたって宮中へ山蕗や鯨、鱒、鶉などの食物を献上しました。
正親町天皇や公家衆は大いに喜び、ものによっては宮中で調理して公家たちに振る舞っていたようです。
とはいえ、信長も宮廷に媚びへつらうまではしません。
同年3月、宮廷から信長に対して「副将軍に就任してはどうか」という話をスルーしています。
かといって険悪な関係になったわけではなく、信長は4月から禁裏の修繕を始めました。
いわずもがな大金を必要とする事業ですし、正親町天皇は信長のフットワークの軽さ・気前の良さについては「信用に値する」と思えたでしょう。
となると、次にやるべきことは改元です。
永禄年間には前述の通り永禄の変や、松永久秀らの戦闘で東大寺を焼失してしまう事件などが相次いだため、正親町天皇は改元を望んでいました。

東大寺盧舎那仏坐像
永禄十二年中に、宮中にはその意向を伝えていたようです。
しかし、その前に父である後奈良天皇の十三回忌をやらなければなりませんでした。
十三回忌の費用を家康に負担させたのは
後奈良天皇の十三回忌は永禄十二年(1569年)7月のことで、費用は信長ではなく、徳川家康に命じられています。
使者は信長とも親交の深い山科言継(やましなときつぐ)でした。
言継は三河へ行く途中で岐阜に立ち寄り、信長にこの件を話したようです。
すると信長はこんな言葉で言継を喜ばせます。
「今、家康は駿河で対陣しているので、三河に行っても会えないでしょう。
私から家康にその件を伝えます。
返事が来るまで、言継殿は岐阜に留まると良いでしょう。
もし家康から良い返事がなければ、私から銭一・二万疋を献上致します」
結局、家康から費用が献上されたため、このときは信長から献金を受けることはありませんでしたが、正親町天皇と言継は、二人に対する好意がかなり増したようです。

徳川家康/wikipediaより引用
正親町天皇は滞りなく費用が献上されたことを大いに喜び、この後言継に送った手紙の中で家康を【左京大夫】と呼んでいるのです。
左京大夫というのは、京都市中の司法・行政・警察機能を受け持つ職。
この場合の”左京”は京都の東側を指します。
右京(京都の西側)を受け持つ職は、同様に右京大夫と呼ばれました。
室町時代になると、四職の家柄である一色氏などが左京大夫、細川氏宗家(京兆家)が右京大夫に任じられたため、この二つの官位は戦国大名の羨望の的でもあったのです。
ただし、京兆家がずっと京都で勢力を持っていたため、右京大夫を他の大名が受けることは難しく、左京大夫に人気が集中していました。
このため、宮廷が困窮するようになると、あちらこちらの大名に左京大夫の官職が売られるように……。
正親町天皇もそういった背景を知っていて、家康をおだて、また何かの折に献金を引き出そうとしたのかもしれません。
いかにも政治的なやりとりという感がありますね。
第一次信長包囲網で和議に介入
年が明けて永禄十三年(1570年)2月には、改元の話を義昭などにもちかけています。
その甲斐あって4月には”元亀”への改元を実施。
続けて、正親町天皇の命で、信長の戦勝祈願と思われる祈祷が行われています。
この頃の信長は浅井・朝倉氏や三好三人衆など敵が多くなっていました。
今日では【第一次信長包囲網】と呼ばれる時期です。

浅井長政と朝倉義景/wikipediaより引用
祈祷の効果があったかどうかは神のみぞ知るというところですが、正親町天皇が心情的に信長へ肩入れしていたことがわかりますね。
といっても義昭との関係も悪くなく、同年7月には義昭に献金を依頼し、あまり日を置かずに一万疋献上されています。
同年11月には比叡山が浅井・朝倉軍を山上に引き入れ、織田軍がそれを包囲するという事件がありました。
このときは義昭と正親町天皇の介入によって和議が結ばれています。
誰の意思で行われたのか?
さまざまな説がありますが、正親町天皇は積極的だったようです。
比叡山は都の鬼門=北東を守る鎮守の山であり、伝統ある寺院。正親町天皇や朝廷の人々にとっては、できれば本来の仕事である仏道修行や祈祷に専念し、その役目を果たし続けて欲しかったところでしょう。
しかし、事態は思わぬ方へ悪化していきます。
いわゆる【比叡山焼き討ち】が勃発してしまうのです。
焼き討ちされた比叡山には弟の覚恕もいた
延暦寺は浅井・朝倉への協力を続けておりました。
そのため信長は、延暦寺に対して
「浅井・朝倉への協力をやめれば、こちらから手荒なことはしない」
と幾度も伝えたのですが、寺側がこれを撥ねつけます。
結果、元亀二年(1571年)9月、比叡山焼き討ちを強行したのです。

絵本太閤記に描かれた比叡山焼き討ちの様子/wikipediaより引用
今日では
「当時の延暦寺にはあまり僧侶たちが住んでおらず、麓の町にいたので、信長が焼いたのはそちらである」
という説も出てきていますね。
とはいえ、当時の天台座主(天台宗と延暦寺のトップ)は、正親町天皇の弟である覚恕(かくじょ)ですから、天皇も気が気でなかったでしょう。
焼き討ちの当日、覚恕は朝廷で「織田家との和解を如何にして進めるか」という相談をしていたので難を逃れていますが……。
そのあたりの事情もあってなのか。
焼き討ち直後に信長が上洛すると、正親町天皇は飛鳥井正教を勅使として派遣。口頭での伝達だったようでハッキリした記録がながら、その後、信長は朝廷への収入を融通しています。
信長は、あくまで不誠実な勢力(=延着時))を罰しただけであり、京都市中に害を成すつもりはない――ということを主張したかったのでしょうか。
同年10月に洛中洛外の領主から米を集めて、京都内で貸し付けを行わせ、その利子を朝廷へ献上させたのです。
その利子が毎月十三石だったというのですから、相当な量です。
一石は「大人一人が一年食べていける量の米」です。
つまりは「大人13人が一年食べていける量の米を毎月朝廷に献上させた」わけですから、相当な財政改善になったことでしょう。
改元は朝廷の一大事なれば
信長との結びつきが自然と強まっていく一方、正親町天皇と足利義昭との関係は少しずつ下降線を描いていきます。
元亀三年(1572年)4月、正親町天皇が義昭へ改元の費用捻出を依頼したところ、なんと一年以上も放置されたのです。
後に信長は【十七か条の意見書】で義昭の行為を咎めています。

等持院霊光殿に安置されている足利義昭坐像/wikipediaより
義昭としては
「正親町天皇と信長が結託して、自分の地位を脅かそうとしている」
と思ったのかもしれません。
ただ、将軍の立場としては、天下のことを考えなければならないもの。
特に「改元」というのは、非常に大切な取り決めです。
明治以降は一世一元の制(天皇一代につき元号一つ)となったため、現代の我々にはピンときにくいかもしれませんが、明治以前は非常に重要視されていて、いわばスケールの大きな験担ぎでした。
天災や戦乱などが多いときは、改元をして世の中の流れを良くしよう――それがセオリーであり、無視されては朝廷として立つ瀬がありません。
しかも元亀四年(1573年)になると、義昭は朝廷へ品々や資金の献上を放棄。
同年4月には信長と義昭の不和が顕在化し、信長が上京に放火まで行う事態に発展しました。
これはさすがにやりすぎで正親町天皇の勅命で和睦が結ばれますが、正親町天皇は義昭に「内裏付近へ武士を駐在させないように」と命じました。
そして同年7月。
義昭は京都を出て槙島城へ退去し、程なくして反信長の兵を挙げたところ織田軍に攻められ、人質を提出して同所から退去することになります。
実質的に、ここで室町幕府は滅亡しました。
正親町天皇と信長で腹の探り合い
こうして、正親町天皇は信長との結び付きを強めていく……といいたいところですが、実際にはここから腹の探り合いが本格化していったようなフシがあります。
険悪というほどではないものの、完全な協力関係ともいい難い、そんな絶妙なやりとりが続くのです。
まずは天正元年(1573年)12月。
信長から正親町天皇に対して【譲位を】申し入れたといいます。
これは正親町天皇が邪魔だからというわけではなく、本来は存命中に退位し、新しく位に就いた天皇を後見するという形が望ましいからです。
朝廷があまりに貧乏で費用面などの問題も重なったため、正親町天皇の曽祖父にあたる後土御門天皇の代から譲位は行われていませんでした。
しかし信長が言い出すからには、費用の準備も万全です。
「翌天正二年の春に、信長が譲位に伴う費用を献上する」ということで話がまとまり、正親町天皇も喜んでいたとか。
しかし実際に年が明けてみると、不測の事態がいろいろと起きてしまいました。
朝倉家を滅ぼし一度は織田家の勢力圏になった北陸で【越前一向一揆】が蜂起し、信長はその対処にあたらなければならなくなったのです。
蘭奢待の切り取りも同年に実行されています。
正親町天皇は不本意だったようなので微妙なところですが……。

蘭奢待/wikipediaより引用
翌天正三年(1575年)には譲位の話はあまり出てこず、正親町天皇と信長は、お互いのためになるようなことをして結びつきを強めていきました。
3月には信長が公家・門跡を対象とした徳政令を発令。
8月には越前再攻略中の信長に対し、正親町天皇から陣中見舞いの勅使が派遣されました。
なんとも政治的なやり取りです。
同年9月には、石山本願寺が三好康長・松井友閑を通じて信長に和議を申し入れています……が、これは”休戦”であって”終戦”ではありませんでした。
まあ、よくある話で翌天正四年(1576年)4月に本願寺が再挙兵しています。
これに対し正親町天皇は、信長の戦勝祈願を命じることで本願寺に圧力をかけました。
祈願がどこまで効いたか不明ながら、同年11月には神泉苑を整備し、祈祷場所として再興を狙おうと試みています。これは信長も承認しています。
二人は持ちつ持たれつだった?
ここまでの流れで、織田家……というか信長の影響力が確実に強まっているのがご理解いただけるでしょう。
なんと天正五年(1577年)には、正親町天皇(あるいは譲位後の誠仁親王)が安土へ行幸する予定だった……という話まであったようです。
公的な記録ではなく、公家同士の個人的な手紙の中に書かれているものですから詳細は不明ながら、譲位に関する相談等は信長との間でも行われていた可能性を感じさせますよね。
実際、正親町天皇が織田家の軍事戦略において大きなキッカケになってることは本願寺との戦いにおいてよく見えます。
というのも天正八年(1580年)に、正親町天皇による勅命講和によって石山合戦(織田vs本願寺)が終結し、実質的に織田家が勝利したのです。負けた本願寺顕如らは石山から退去することになりました。

『石山合戦図』織田軍と石山本願寺が約10年にわたって戦い続けた/wikipediaより引用
また、織田信忠が中心となって武田家(武田勝頼)を滅ぼした【甲州征伐】の際も、正親町天皇は勅使を派遣したり、凱旋後の信長に戦勝祝いを送ったりしています。
正親町天皇にとっても、信長にとっても。
すべてが思い通りになっていた――とは思えませんが、全体的に両者は”持ちつ持たれつ”という関係ですね。
「信長、お主も悪よのう」「いえいえ陛下こそ」なんてやりとりは……さすがにないか。
時系列が前後しますが、イエズス会の宣教師コスメ・デ・トーレスは、元亀元年(1570年)
「日本には栄典を授与する首長と、行政や司法を担当する首長がおり、どちらも都に住んでいる。
前者は”おう”と呼ばれており、その地位は世襲で、人々は彼を崇拝の対象としている」
と記しています。
彼はフランシスコ・ザビエルの後任でもあり、当時の日本をよく観察していたようです。

フランシスコ・ザビエル/Wikipediaより引用
この時期ですと、”栄典を授与する首長”が正親町天皇、”行政や司法を担当する首長”が信長のこととみて間違いないでしょう。
政教分離に近い状態にもかかわらず、物理的に近い距離というのは、この時代とても奇異に映ったでしょうね。
また、困窮していた戦国時代であっても、天皇が一般人にも尊敬されていたことがわかります。
このように、信長とあくまで政治的なやり取りを続けていた正親町天皇。
【本能寺の変】に対する反応も、実に政治的なものでした。
光秀や秀吉ではなく京都の安寧が第一
天正10年(1582年)6月2日未明。
京都・本能寺に滞在していた織田信長を明智光秀13,000もの軍が襲い、信長は敗死しました。
ご存知、本能寺の変ですね。

本能寺の変を描いた『真書太閤記 本能寺焼討之図』(渡辺延一作)/wikipediaより引用
その後、いったん近江に下った明智光秀に対し、正親町天皇は
「京都がこれまで通り安寧でいられるように務めてもらいたい」
という旨の勅使を派遣しています。
光秀もこれを了承。
しかし、程なくして光秀が【山崎の戦い】に敗れると、正親町天皇は次に秀吉へ勅使を送っています。
あくまで正親町天皇が求めていたのは京都や朝廷の安全であって、それをもたらしてくれるのならば、相手は誰であっても問題がないというわけです。
正親町天皇の立場からすれば当然の話ですが、実にシビアですね。
秀吉が正親町天皇に本格的に接近するのは、信長の百日法要からです。
このとき「どの寺院で執り行うのが良いか、お指図をいただきたいと思うのですが」と、秀吉から正親町天皇に申し出ています。
そして正親町天皇が大徳寺を指定し、実際に法要が行われたのでした。
以降、正親町天皇は信長に対していたのと同様に、秀吉に対して勅使の派遣や綸旨の発行を行っています。
荘園の奪還を求めたり、武勇を褒めたり。
これに対し、秀吉は慎重に朝廷へ入り込んでいきました。
秀吉との関係構築にもぬかりなく
秀吉のどういうところが慎重だったか?
例えば、正親町天皇によって四位の大将に任じられそうになっても、五位の少将に留めてもらえるよう願い出ています。
これは正親町天皇が秀吉を贔屓し始めたというわけではなく、当時は無位無官だった秀吉がいきなり高い官位については、いらぬ反感を買いかねません。
まずは低い官位を受け、少しずつ出世させてもらうことにしたのでしょう。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
秀吉は、正親町天皇の譲位と、誠仁親王の即位に関して費用等の工面を約束していたので、朝廷側にしてみれば断るわけにもいきません。
ただ、秀吉はその後、天正年間のうちに大納言・内大臣、そして関白になっていくので、結局は、強引な大出世をしています。
それを押し通せたのも、秀吉が信長に負けず劣らず、朝廷への献上品をマメに送っていたからでしょう。
それに秀吉は、信長が正式な儀式を伴う参内を一度もしなかったのに対し、毎年のように行っていました。
正親町天皇としては「朝廷の後ろ盾としてアテにできる人物」とみなしたに違いありません。後日、秀吉が病気をしたときには平癒祈願を命じたり、見舞いの勅使を出したりもしています。
それは、天正十四年(1586年)11月に、孫の和仁親王(後陽成天皇)へ譲位した後も変わりませんでした。
※息子である誠仁親王が同年7月に亡くなってしまい、その子・和仁親王が位を継いだ
【小田原征伐】の際には正親町上皇・後陽成天皇がそれぞれ戦勝祈願を行っています。
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ときには秀吉が上皇・天皇をあからさまに利用するパフォーマンスをしたこともありましたが、これは信長時代とはまた違った形での「持ちつ持たれつ」といったところでしょう。そして……。
文禄二年(1593年)1月5日に崩御。宝算77。
譲位からそこまでの間、正親町上皇の動向はあまり表に出ていません。
皇位継承だけでなく、後陽成天皇への実権委譲が、おそらく速やかに行われた証左でしょう。
信長や秀吉の言動については、不本意なことも多々あったと思われますが、皇室や公家を含め、京都が困窮から立ち直るために、彼らの力が必要だったのもまた事実。
そこを冷静に立ち振舞、次世代へ繋げた――。
その功績は名君と呼ぶにふさわしいものかもしれません。
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【参考】
国史大辞典
藤井讓治『天皇と天下人 (天皇の歴史) 』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
ほか






