フランシスコ・ザビエル/Wikipediaより引用

宣教師・キリシタン

日本のキリスト教伝来~戦国時代にどう広まり、いかなる理由で禁止された?

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戦国時代に西洋から伝わったものと言えば?

合戦好きの皆様はおそらく【鉄砲】とお答えするでしょうし、文化・風習面に興味を抱く方は【キリスト教】となるのではないでしょうか。

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主に西国大名や織田信長の庇護で広まり、豊臣秀吉徳川家康の治世に大きな影響を与えながら、江戸時代鎖国政策と共に禁じられた西洋を主体とした宗教。

鉄砲伝来については先日の記事でご説明申し上げましたので、今回はキリスト教伝来について見ていきましょう。

 

宗教改革前に伝わったカトリックの教え

日本におけるキリスト教の歴史は、おおむね二つに分けることができます。

初めて伝来した戦国時代から幕末までの時期と、明治に入ってから改めて伝来し、現在に至るまでの時期です。

前者の時期におけるキリスト教信者を「キリシタン」と呼んでいることが多いですね。
明治時代以降はクリスチャンと呼ばれているような気がしますが、……この辺は明確な基準があるわけではないので、何となくのイメージでいいかと。

ちなみに、戦国時代におけるキリスト教は、おおむねカトリックをさします。

日本にキリスト教が伝わった時点では、ヨーロッパで宗教改革が始まっていないからです。
江戸時代に入る頃、プロテスタントの国とカトリックの国の人が両方日本に接近してきてトラブルになるのですが、それはまた江戸時代に入ってからの題材とさせていただきます。

「キリシタン」はポルトガル語の"Cristao"からきています(実際は"a"の上に"~"がつきます)。
グーグル翻訳先生に読んでもらったところ、確かに「キリシタン」に聞こえました。

日本語では幾利紫丹・記利支丹・幾利支丹・切支丹・吉利支丹など、さまざまな当て字が作られています。

江戸時代に入ってからは、五代将軍・徳川綱吉の字とかぶる「吉利支丹」が使われなくなり、禁教令を後押しする意味もあって、幕府では「鬼」や「死」などのマイナスなイメージが強い字を当てるようになっていきました。

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他、キリスト教そのものについても、さまざまな呼び名がありました。
西方の国から伝わったから「天竺宗」、南蛮人が伝えたから「南蛮宗」、ポルトガル語でキリスト教の神をデウス("Deus")ということから「デウス(ダイウス)宗」などです。

では次に、伝来してから秀吉時代までのキリスト教に関する流れをみていきましょう。

 

早ければ中国(唐)を通じてやってきたなんて話も

鉄砲伝来と同じく、キリスト教が伝わった時期についてもさまざまな説があります。

2018年時点では、イエズス会の修道士であるフランシスコ・ザビエルが来日した天文十八年(1549年)説が最有力。

中国では4世紀に、シルクロードを通じて「ネストリウス派」というキリスト教の一宗派が伝来し、「景教」と呼ばれ、信者も多数いました。
そのため「この時期に中国から日本へ伝わった文化の中に、キリスト教もあっただろう」とする学者先生もおられるようです。……まぁ、証拠となるものが見つかっていないため、今のところはスルーされていますが。

唐にキリスト教が伝わっていた事を示す大秦景教流行中国碑/wikipediaより引用

もしかしたら、青森県などにある「キリストの墓」と呼ばれているものが、景教を伝えようとした人のお墓だった……なんてことはあるかもしれませんね。

8世紀には、渤海国の使者が船を出して東北に流れ着いていますから、似たようなことがそれ以前に起きた可能性がないとはいい切れません。
まあ、その辺のお話はロマンということで。

ザビエルの足跡については、以前に公開した彼の記事で詳しくお読みいただくとして、今回は「日本側から見たキリスト教」という視点でお話を進めていきたいと思います。

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布教を許した大きな理由3つ

キリスト教はそもそも「一神教」という時点で、当時の日本社会にとって全く異なる宗教でした。

しかし、キリスト教の布教を許した大名は決して少なくありません。
織田信長や有馬鎮貴(晴信)、大友義鎮(宗麟)、高山右近小西行長などが、比較的布教に積極的だった大名として有名ですね。

これには、大きく分けて三つの理由があります。

◆西洋の文化を取り入れるため

南蛮趣味として知られるのが、我らが織田信長さん。
正親町天皇に織田軍の陣容を披露した「京都御馬揃え」では、ビロードのマントや、西洋帽子を着用していたとされています。

また、地球儀や時計など、当時の最先端にあたる知識にも強く興味を示しました。

もっとも、ルイス・フロイスから時計を贈られたときは「壊れたときに修理できなさそうだから」という理由で返したそうなので、何でもかんでも受け入れたわけではなさそうです。
その時の信長は至極残念そうだったとか。
(´・ω・`)←こんな顔してたんですかね。

◆仏教勢力への対抗策としての期待

この時代、延暦寺本願寺を始めとした仏教の寺院が自治権&武力を持っていたことは、皆さんご存じでしょうか?

自衛のためとはいえ、特に本願寺や浄土真宗(一向宗)は、周辺の大名とトラブルになることも珍しくありません。
中には、本来清い身を保たねばならないはずの僧侶なのに、公然と女性を連れ込むなどの生臭ぶりを発揮していた者もいたほどです。

キリスト教の存在を知った大名たちは、新しい勢力にある程度力を持たせることによって、これらの仏教勢力を相対的に弱めようとしました。

◆大名たち自身がキリシタンになった

いわゆる「キリシタン大名」と呼ばれている人たちです。

有馬鎮貴(有馬晴信)、大友義鎮(大友宗麟)、高山右近、小西行長など。
自身が敬虔な信者となったために、家臣や領内にもキリスト教を勧めていました。

もっとも、大名家丸ごとキリシタンになったという家はほぼ皆無で、逆に家臣に反発を受けることが多かったようです。

神様を信じるのは心の内のことですので、彼らがキリスト教に傾倒した確実な理由はわかりません。
逆に、キリスト教の存在を知っても信仰しなかった大名のほうが、理由がハッキリしています。

大友宗麟/wikipediaより引用

 

戦国大名にとって都合の悪かった面

来日した宣教師たちは、キリスト教の教えに従って「生命尊重」「純潔」「離婚禁止」「一夫一婦制」などを主に説きました。
どれもカトリックの大切な教義です。

このうち「一夫一婦制」は、戦国大名になかなか受け入れられませんでした。
理由は単純。子供の数ですね。

当時は乳幼児の致死率が非常に高い時代なので、大名としては跡継ぎのための子供が一人でも多くほしいところです。
しかし、一人の女性が産める子供の数は限られています。

そこで側室を多く抱えざるをえなくなるわけで、ここで制限されるとお家騒動などで困ったことになりがちです。

大友宗麟のようにキリシタンであっても多くの側室を抱えた人もおりますし、まぁ、ただ単純に「女好きだったから」とされる大名もいました。
有名なのが豊臣秀吉です。
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