上泉信綱(剣聖)

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剣聖・上泉信綱は新陰流の祖にしてNo.1の剣術家~信玄の誘いを断り修行へ

戦国武将と並び、人気のある時代劇の主役といえば、剣豪。

天正五年(1577年)1月16日、新陰流を起こした上泉信綱が亡くなったといわれています。

知名度の割には生年や生まれた場所など詳しいことがはっきりわかっていませんが、いったいどんな方だったのか?

さっそく見て参りましょう。

 

上泉信綱が修めた念流・神道流・陰流

前述の通り上泉信綱は生年が不明。

父は上泉秀継と目されており、この一族は上野国(群馬)に勢力を有していた国衆・大胡(おおご)氏の一族でした。

信綱は次男でしたが、16歳のときに兄が亡くなり、家督を継ぐことに。

剣術については関東武士の間では一般的だった【念流】を学ぶほか、下総国(茨城)の香取でも【神道流】を修めたと伝わります。

念流とは、僧侶であり剣術家でもあった念阿弥慈恩(ねんあみじおん)という人物が南北朝時代に始めた流派です。

剣術家というと上泉信綱が始祖――みたいなイメージもあるかもしれませんが、そもそも信綱が創始した【新陰流】も、彼が享禄2年(1529年)に【陰流】の極意を習得し、それをベースに始めたものになります。

なお、新陰流を始めたのは天文10年(1541年)代と考えられています。

これが信綱と親交を持った柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし)へと引き継がれ、さらに【柳生新陰流】に発展して江戸時代に超ビッグネームとなるため、上泉信綱に剣術家の始祖みたいなイメージがあるのかもしれません。

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信玄の誘いを断ってまで武者修行へ

かように剣術家のイメージが強い上泉信綱は、当初、一武将として関東管領・上杉家に仕えていました。

北条氏ともドタバタがありながら、後に信綱が武名を挙げるのは箕輪城主・長野業政長野業正)に仕えてから。

戦乱の世では剣一本で生きていくことは不可能ですので、仕方のないことだったのでしょう。

この業正のもとで信綱は活躍をして「上野国一本槍」という感状(主君などから贈られる活躍を称える感謝状)をもらうほどの活躍をしております。

詳細は不明ながら、やはり戦場での武働きはピカイチだったのでしょう。

ふとamazonで検索してみたらTシャツも売られているほどで驚きました。

上野国一本槍Tシャツ/amazonより引用

なお、長野業正は、あの武田信玄の侵攻を6度も食い止めたという伝説もあるほどです。

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おそらく後世の作り話という見方が強いですが、信玄相手に業正が奮闘したのはおそらく間違いなく、上泉信綱がその一翼を担っていたのかと思うと胸アツですね。

実際、業正の死後である永禄9年(1566年)、その息子・長野業盛が武田軍に破れると、宙に浮きかけた信綱を信玄が旗本に抱えようとしたぐらいです。

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しかし、信綱はその誘いを断わります。

武芸者として【新陰流】を広めることにしたのです。

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