上泉信綱

上泉自治会館(前橋市)にある上泉信綱像/wikipediaより引用

剣豪・忍者

剣聖 上泉信綱は信玄の誘いを断り修行へ 多くの剣豪育てた新陰流の祖

戦国武将と並び、人気のある時代劇の主役といえば、剣豪。

特に新陰流を起こした上泉信綱は数多の剣術の祖として知られ、特別な存在である「剣聖」と呼ばれるほど。

宮本武蔵のような派手なエピソードがない代わりに、武田信玄の士官を断って剣術修行に出たとか、柳生宗厳や北畠具教に剣術を指南したとか、戦国好きが震えてしまいそうな経歴をお持ちです。

ただ、剣の道に没頭しすぎたせいか。

生年月日だけでなく生没年すら不詳であり、元亀2年(1571年)7月21日『言継卿記(ときつぐきょうき)』の記録を最後に消息を絶っておりまして……。

なぞ多き上泉信綱の生涯を振り返ってみましょう。

 


上泉信綱が修めた念流・神道流・陰流

前述の通り上泉信綱は生年が不明。

父は上泉秀継と目されており、この一族は上野国(群馬)に勢力を有していた国衆・大胡(おおご)氏の一族でした。

信綱は次男でしたが、16歳のときに兄が亡くなり、家督を継ぐことに。

剣術については関東武士の間では一般的だった【念流】を学ぶほか、下総国(茨城)の香取でも【神道流】を修めたと伝わります。

念流とは、僧侶であり剣術家でもあった念阿弥慈恩(ねんあみじおん)という人物が南北朝時代に始めた流派です。

剣術家というと上泉信綱が始祖――みたいなイメージもあるかもしれませんが、そもそも信綱が創始した【新陰流】も、彼が享禄2年(1529年)に【陰流】の極意を習得し、それをベースに始めたものになります。

なお、新陰流を始めたのは天文10年(1541年)代と考えられています。

これが信綱と親交を持った柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし)へと引き継がれ、さらに【柳生新陰流】に発展して江戸時代に超ビッグネームとなるため、上泉信綱に剣術家の始祖みたいなイメージがあるのかもしれません。

柳生石舟斎の読史『信長の野望・大志 with パワーアップキット』発売コラボ

続きを見る

 


信玄の誘いを断ってまで武者修行へ

かように剣術家のイメージが強い上泉信綱は、当初、一武将として関東管領・上杉家に仕えていました。

北条氏ともドタバタがありながら、後に信綱が武名を挙げるのは箕輪城主・長野業政(長野業正)に仕えてから。

戦乱の世では剣一本で生きていくことは不可能ですので、仕方のないことだったのでしょう。

この業正のもとで信綱は活躍をして「上野国一本槍」という感状(主君などから贈られる活躍を称える感謝状)をもらうほどの活躍をしております。

詳細は不明ながら、やはり戦場での武働きはピカイチだったのでしょう。

ふとamazonで検索してみたらTシャツも売られているほどで驚きました。

上野国一本槍Tシャツ/amazonより引用

なお、長野業正は、あの武田信玄の侵攻を6度も食い止めたという伝説もあるほどです。

長野業正(長野業政)
信玄を六度も撤退させた長野業正「上州の黄斑」と呼ばれた名将とは?

続きを見る

おそらく後世の作り話という見方が強いですが、信玄相手に業正が奮闘したのはおそらく間違いなく、上泉信綱がその一翼を担っていたのかと思うと胸アツですね。

実際、業正の死後である永禄9年(1566年)、その息子・長野業盛が武田軍に破れると、宙に浮きかけた信綱を信玄が旗本に抱えようとしたぐらいです。

武田信玄
史実の武田信玄は戦国最強の大名なのか?戦歴や人物像に迫る生涯53年

続きを見る

しかし、信綱はその誘いを断わります。

武芸者として【新陰流】を広めることにしたのです。

※続きは【次のページへ】をclick!


次のページへ >



-剣豪・忍者
-,

×