永禄5年(1562年)1月12日は、前田利長が誕生した日です。
あの前田利家の嫡男であり、母は大河ドラマでもお馴染みの「まつ」こと芳春院。
二人から生まれた利長は、百万石として知られる加賀藩としては初代藩主になります。
ここまで大藩の祖にしては若い頃の経歴が不明な利長ですが、父親の足跡と共にその生涯を見て参りましょう。
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前田家の混乱期に生まれた前田利長
利長が生まれた永禄5年(1562年)と言えば、前田家も織田家もまだまだ黎明期。
あの【桶狭間の戦い】が永禄3年(1560年)のことですから、利家が「特別に苦労を強いられていた時期」でもあります。
というのも利家は永禄2年(1559年)、信長お気に入りの茶坊主を斬り殺してしまい、織田家への出入り禁止を喰らっていたのです(笄事件)。
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織田家へ戻るのを許されたのは、その約2年後の永禄4年(1561年)。
【森辺の戦い】で、足立六兵衛(首取り足立)という敵の猛将を討ち取ってからのことですから、利長が生まれたのは織田家に復帰後間もない頃のことですね。
そこまでの流れをチャートでまとめますと……。
◆利家が織田家を追放される(永禄2年)
↓
◆桶狭間の戦いで利家も勝手に参戦して頑張るがまだ許されない(永禄3年)
↓
◆森辺の戦いで復帰を許される(永禄4年)
↓
◆長男の前田利長が生まれる(永禄5年)
信長が家督を継ぎ本能寺で斃れるまで、織田家はずっと激動でしたが、それでもこの時期の前田利家は特にキツかった頃でしょう。
そんなときに長男が生まれたのですから、利家にとっては非常に励みになったと思われます。
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信長の四女・永姫を嫁に
右も左も、いつになっても敵だらけ。そんな織田家にとって、大事な家臣に次代を担う男児が生まれたことは非常に喜ばしいことでした。
その証拠に利長は、幼いうちから信長に仕え、19歳で信長の四女・永姫(玉泉院)を正室にもらっています。
信長が自分の娘を与えるということは「お前には期待してるから、よく励めよ」というサイン。
利長は晴れがましく、また気の引き締まるような気持ちになったことでしょう。
たとえ、当時永姫がたった7歳だったとしても……と、これは別に信長がテキトーに選んだわけではなく、永姫より年上の女児たちがすでに全員お嫁に行ってしまっていたからです。
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いずれも織田家と結びつきの強い一族に送られていますので、それだけ前田家も重要視されていたことがご理解できるでしょう。
しかし……。
婚儀の翌年、突如、不幸に見舞われます。
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