前田利長

前田利長肖像画と高岡古城公園の像(富山県高岡市)

前田家

利家の嫡男で加賀119万石を作った前田利長~関ヶ原をどう生き残った?

永禄5年(1562年)1月12日は、前田利長が誕生した日です。

あの前田利家の嫡男であり、母は大河ドラマでもお馴染みの「まつ」こと芳春院

二人から生まれた利長は、百万石として知られる加賀藩としては初代藩主になります。

実際に百万石を超え、最大で119万石まで発展させたのも、実はこの前田利長であり、父・利家が当主の時代は一族合わせて76.5万石でした(当代記)。

ここまで大きな藩祖にしては、知名度や若い頃の経歴が不明な気がしますが、それは父の武名があまりに輝いていたからかもしれません。

本稿では、前田利長の生涯を振り返ってみましょう。

 

前田家の混乱期に生まれた前田利長

前田利長が生まれた永禄5年(1562年)と言えば、前田家も織田家もまだまだ黎明期。

あの【桶狭間の戦い】が永禄3年(1560年)のことですから、利家が「特別に苦労を強いられていた時期」でもあります。

というのも利家は永禄2年(1559年)、信長お気に入りの茶坊主を斬り殺してしまい、織田家への出入り禁止を喰らっていたのです。

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笄事件(こうがいじけん)と呼ばれ、織田家へ戻るのを許されたのは、その約2年後の永禄4年(1561年)。

森辺の戦い】で、足立六兵衛(首取り足立)という敵の猛将を討ち取ってからのことですから、利長が生まれたのは織田家に復帰後間もない頃のことですね。

そこまでの流れをチャートでまとめますと……。

◆利家が織田家を追放される(永禄2年)

◆桶狭間の戦いで利家も勝手に参戦して頑張るがまだ許されない(永禄3年)

◆森辺の戦いで復帰を許される(永禄4年)

◆長男の前田利長が生まれる(永禄5年)

信長が家督を継ぎ本能寺で斃れるまで、織田家はずっと激動でしたが、それでもこの時期の前田利家は特にキツかった頃でしょう。

そんなときに長男が生まれたのですから、利家にとっては非常に励みになったと思われます。

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信長の四女・永姫を嫁に

右も左も、いつになっても敵だらけ。

そんな織田家にとって、大事な家臣に次代を担う男児が生まれたことは非常に喜ばしいことでした。

その証拠に前田利長は、幼いうちから信長に仕え、19歳で信長の四女・永姫(玉泉院)を正室にもらっています。

信長が自分の娘を与えるということは「お前には期待してるから、よく励めよ」というサイン。

利長は晴れがましく、また気の引き締まるような気持ちになったことでしょう。

たとえ、当時永姫がたった7歳だったとしても……と、これは別に信長がテキトーに選んだわけではなく、永姫より年上の女児たちがすでに全員お嫁に行ってしまっていたからです。

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いずれも織田家と結びつきの強い一族に送られていますので、それだけ前田家も重要視されていたことがご理解できるでしょう。

しかし……。

婚儀の翌年、突如、不幸に見舞われます。

当の信長が【本能寺の変】で討死してしまうのでした。

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本能寺後は父と共に勝家→秀吉へ

近江で本能寺の一報を聞いた前田利長は、直ちに永姫を前田家の領地へ逃しています。

しかし利長がその後どうしていたのかが不明。

信長の次男・織田信雄に合流したとも、蒲生賢秀(氏郷のトーチャン)と一緒に蒲生家の本拠・日野城にいたともされています。

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普通こういうときって、奥さんの動向がわからなくなるものですけどね。不思議なこともあるもんです。

その後は父と共に柴田勝家につき、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)と敵対することになります。

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ご存知【賤ヶ岳の戦い】ですね。

近江の琵琶湖沿いの賎ヶ岳で勝家と秀吉の両軍が長くにらみ合い、佐久間盛政の突撃で一気に戦況が変わったこの一戦。

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そんな重要場面で前田利家と前田利長は戦線を離脱し、勝敗の行方は一気に秀吉勝利へ流れました。

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なぜ前田家が現場を離れたのか?

その真相は今なお謎ですが、柴田軍にとっては裏切りで、秀吉にとっては朗報でしかなく、結果、前田家はこの一戦を経て豊臣家の揺るぎない重鎮へと取り上げられていきます。

利長もまた、豊臣政権下において【九州征伐】や【小田原征伐】で戦功を挙げていきました。

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その甲斐あってか、26歳のときには豊臣姓を許されるほどです。

順調すぎる出世を経て父も豊臣五大老の一人に数えられ、後に利長自身も後釜に据えられますが、それだけに秀吉と利家の死後における立場は非常に難しいものとなりました。

他でもありません。徳川家康の台頭です。

 

家康暗殺計画と加賀征伐

利家が亡くなったとき秀頼は7歳。

ということは、三年経てば10歳、数え年なら12歳になります。

まだまだ幼いとはいえ、秀頼が名実ともに豊臣家を担っていける年齢ですね。

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五大老の一つである前田利長がここでシッカリと秀頼を補佐すれば、どうなるか?

そのことを誰よりも懸念し、そして対処法を考えたのが家康でしょう。

慶長4年(1599年)8月、利長は父の死から半年後、金沢へ帰ってしまうのでした。

帰国の理由は「鷹狩り」とか、あるいは家康から「少し休んで地元の政治を進めなよ」と言われたとか、そんな伝承があります。

いずれにせよ、それが前田家にとっては運命の分かれ道となりました。

この帰国をキッカケに、利長による「家康暗殺計画」が表面化。

前田家と徳川家の関係が悪化してしまい、一説には【加賀征伐(前田家の討伐)】が実行されそうになったというものです。

出典元が後世の史料のため「仮に家康を暗殺する計画があったとしても利長が関係した事実はない」として、加賀征伐そのものを否定する研究者もおりますが、兎にも角にも利長は、家康によって政権の中心から排除されるような形になってしまいます。

このころ別の五大老・宇喜多秀家も、同じく家康にやりこめられており、徳川家による政権簒奪が進んでいたのですね。

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