小早川隆景/wikipediaより引用

毛利家

小早川隆景(元就の三男)はキレ者よ~王佐の才は毛利や秀吉に重宝され

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和睦後 なぜ秀吉を追撃しなかったのか?

このタイミングで本能寺の変が起きました。

本能寺の変、真相は? なぜ光秀は信長を討ったのか 有名諸説を徹底検証!

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小早川隆景は、秀吉との和睦に合意。

清水宗治の船上切腹をもって両軍は互いに矛を収め、秀吉も明智光秀を討つために京都へ大移動します。

清水宗治と備中高松城の水攻め~戦国時代に武士の鑑とされた切腹劇

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いわゆる【中国大返し】ですね。

中国大返しは可能か!? 秀吉&官兵衛による10日間230kmの強行軍を考察!

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物語ではこのとき、吉川元春が追撃を主張し、これに対して小早川隆景が「一度和睦の誓いを立てたのに、誓書も乾かぬうちにそんなことはできません」(意訳)と反対したため、追撃は行われなかった――なんて描かれたりします。

実際のところ、

・毛利に余力がない

・確証を持てる本能寺の変の情報が入るのが遅かった

・情報が入った時点で、秀吉は既に遠方にいた

上記のような理由から、追撃しようにも無理だったという見方が有力視されています。

 

秀吉も上手になだめて羽柴・豊臣姓も許されるほど

本能寺の変から【賤ヶ岳の戦い】まで。

織田家の権力争いについて、毛利家は中立を保ち続けました。

賤ヶ岳の戦いで秀吉と勝家が激突! 勝敗を決めたのは利家の裏切り?

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そして秀吉が勝つのを見定めてから、積極的に協力していきます。さすが抜け目がない。

四国攻めや九州攻めにも参加し、有力大名として生き残る路線を確保。

秀吉が隆景を気に入っていたので、四国攻めの後「お前に伊予(現・愛媛県)を与えて大名にしてやろう!」と言い出しましたが、隆景はこれをやんわり断ります。

「私は毛利の家臣ですので、まず主の輝元に下されませ」と言い、あくまで家臣の地位に留まる意思を明らかにしたのです。

その後、甥で当主の毛利輝元から伊予を受け取りました。

結果的には同じことですが、彼が家中の混乱を防ぐことを重要視していたことがわかる一件。

統治のほうもうまくやってのけ、ルイス・フロイスには「隆景サンスゴイネー! 日本中で伊予ガ一番平和ダヨー!!」(超訳)と絶賛されています。

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当然、秀吉からの覚えもめでたく、羽柴・豊臣の名乗りを許されるほどでした。

北条氏政北条氏直親子を攻めた小田原征伐では、徳川家康がかつて本拠としていた岡崎城(現・愛知県岡崎市)をあずかっております。

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朝鮮の役では、前半戦にあたる文禄の役で渡海し、碧蹄館の戦いで立花宗茂とともに勝利を収めました。

このとき既に還暦でしたので、当時の感覚でいえば立派な老将です。

凄まじい体力&精神力ですよね。
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