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【小早川隆景】
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時代の変遷に従う
まず彼らは、信長に近付いた国人たちを討ち果たし、その一方で、石山本願寺などの反織田勢力と協力体制を構築しました。
毛利方の村上水軍が石山本願寺に兵糧を運んだり、同じく村上水軍が織田水軍の船を焼いたりしているのは、この流れによるものです。
そして村上水軍に対抗するため作らせたと言われているのが、信長が考案したという”鉄甲船”です。

織田水軍を率いた九鬼嘉隆/wikipediaより引用
鉄甲船の実態については諸説あり、ここでは詳しく触れませんが、小早川隆景ほどの人ならば
「的確に兵器を打ち破る方法を出してくる信長と織田軍のことを、決して侮ってはならない」
と思ったのではないでしょうか。
そして信長包囲網も諸々の理由で破れていくことになります。
上杉謙信が急死してまず北の一角が崩れ、

上杉謙信/wikipediaより引用
さらに朝廷の勅命で本願寺が和解。
毛利家も織田家と積極的にやりあう必要は失われていきますが、そこは信長ですから、包囲網に加わっていた大名たちを各個撃破すべく、有能な家臣たちをガンガン各地域に割り振っていきます。
そして羽柴秀吉が中国攻めを開始すると、秀吉vs毛利家という構図がしばらく続き、以下のような著名な合戦が連続します。
詳細は以下の記事に譲りますが、
-
秀吉と官兵衛の「鳥取の渇え殺し&三木の干し殺し」がエグい 人は飢えると◯肉も喰う
続きを見る
隆景をはじめとした毛利家の諸氏にとっては恐ろしく感じられたことでしょう。
特に備中高松城については輝元と共に元春と隆景も援軍に赴き、もう少しで秀吉と直接激突するところでした。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
本能寺の変
ではなぜ小早川隆景と秀吉の直接対決は実現しなかったのか?
というと、本能寺の変が発生したからです。
密かに信長の死を知り得た秀吉は、毛利方にバレる前に急いで「城将・清水宗治の切腹と引き換えに兵を引く」と和睦を持ちかけ、有名な【中国大返し】を行います。
中国大返しについては現在「普通の行軍だった」という指摘もあり、詳細は以下の記事からご覧ください(本記事末にもリンクがあります)。
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光秀の謀反を知った秀吉~直後に強行した「中国大返し」は本当に無茶な行軍だった?
続きを見る
いずれにせよ毛利方も6月4日には本能寺での一件を知るも、隆景が『和議を反故にして追撃してはならない』と言ったため秀吉を追わなかったということになっています。
深追いしても秀吉に追いつくかどうか不明ですし、急に大軍を動かすのも困難。
秀吉を怒らせるより信頼させていく方が旨味アリと考えたのでしょう。

明智光秀/wikipediaより引用
その後、清洲会議を経て柴田勝家を討ち、他の織田家臣を従え、家康も封じ、圧倒的な勢いで天下人の道を進んでいきます。
毛利家はその間、いずれの有力武将にも与せず静観――。
秀吉が勝つのを見定めてから、積極的に協力していきます。さすが抜け目がない。
そして紀州・四国・九州の攻略に参加し、豊臣政権の有力大名として生き残る路線を確保したのです。
本能寺の変までの間にかなりの損害を受けていましたし、元就からも「我が家は天下を望んではならない」と遺言されていましたので、これを守ったという意味も強かったのかもしれません。
伊予を与え 大名にしてやろう
秀吉の中国大返しを邪魔しなかっただけでなく、才知そのものが見込まれたのでしょう。
四国攻めが追われると、小早川隆景は秀吉から「伊予(現・愛媛県)を与えて大名にしてやろう!」と持ちかけられます。
「私は毛利の家臣ですので、まず主の毛利輝元に下されませ」
やんわり断りながら、自身が家臣の地位に留まる意思を明らかにした隆景。
そこで伊予はいったん輝元に与えられ、それを受け取るという形で自身が治める地としました。
他家の有力家臣に領地を与えるのは秀吉がよく用いた手段で、つまりは離間策です。
「家臣がいきなり自分と同格の大名になれば、元の主人はいい気分にはならない。そうすればしばらく内輪もめをしてくれるし、頃合いを図って潰してしまえばいい」
ということですね。
揺るぎない物量が備わった天下人・秀吉ならではの戦略です。
この策でもなびかない者には羽柴・豊臣の名乗りを許しながら自身の傘下に取り込もうとしています。
むろん小早川隆景はいずれの策にも乗りませんでしたが、そのぶん命じられた仕事はきっちりこなしていました。
例えば秀吉が北条氏政と北条氏直の親子を攻めた【小田原征伐】では、清須城を預かっています。
また、四国征伐などで深く関わった秀吉の弟・豊臣秀長とは、手紙や贈り物のやりとりをするなど親しい間柄になっていました。

豊臣秀長/wikipediaより引用
天正十九年(1591年)に「秀長の容態が思わしくない」と聞いた際に、隆景は急いで大和へ向かっています。
友情に近い感情があったのではないでしょうか。
しかし残念ながら秀長は、程なくして同年1月22日に逝去。
秀吉はタガが外れたかのように、あまりにも理不尽で不毛な戦いへと突入していきます。
そう、天正二十年(1592年)から始まった文禄・慶長の役です。
このとき小早川隆景は?
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