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【小早川隆景】
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朝鮮の役に従軍
文禄・慶長の役での小早川隆景は、前半戦にあたる文禄の役で渡海しました。
秀吉軍は確かに破竹の勢いで進軍していきました。
しかし単に戦線が伸びていくだけで、次第にジリ貧へと追い込まれてしまいます。
結果、行き詰まってしまい休戦という話になるのですが、このとき加藤清正が石田三成・小西行長たちと揉めに揉め、秀吉までその件が報告されるという事件がありました。

石田三成(左)と加藤清正/wikipediaより引用
このとき秀吉に頼りにされたのが隆景。
秀吉からこんな書状が届きました。
「清正と三成たちから報告が来ているのだが、信用できないので隆景の意見も聞きたい」
秀吉にとって清正と三成は幼い頃から見知っている家臣であると同時に、その分ひいき目も出てしまいます。
公平な第三者として隆景が選ばれたのでしょう。
豊臣政権にとっては非常に由々しき問題が露呈した一件でもあります。
政権内で有力者が揉めた場合、秀吉以外、仲裁できる人物がいない……その役割を小早川隆景に託そうにも、文禄二年(1593年)の碧蹄館の戦いで勝利を収めた後、隆景は体調を崩してしまいました。
既に還暦を超えているのです。
心配した秀吉は帰国を促しましたが、真面目な隆景は、当時プサンの北に築いていた亀浦城の工事に目処がつくまで残ることにします。
それだけでなく、隆景は自軍の兵の一部を亀浦城の在番に残しました。
そして文禄二年閏9月下旬に帰国すると、いったん国元に戻り、翌年の正月に上洛する予定を立てます。
豊臣政権側にそのことが伝えられると、その返事として奉行の誰かから思いも寄らない失礼なことが伝えられました。
「次に上洛する際は、あなたの鷹を太閤様に進上なさい」
いやはや、これでは政権内でゴタゴタが絶えないのも無理はありません。
病気で帰ってきた老齢の隆景に鷹をねだるって、人の心はどこにあるのでしょう。
しかもこのとき所望された鷹は、かつて隆景の家臣だった乃美宗勝(のみ むねかつ)という人が大切にしていた鷹でした。
宗勝は隆景にとって貴重な相談相手。
そのため宗勝も朝鮮に渡っていたのですが、病気により帰国した直後の天正二十年(1592年)に亡くなっています。
ゆえにこの鷹は、生きた形見ともいえる存在でした。
いくら良い鷹が贈答に適しているからといって、その形見をよこせとはあまりにもひどい話です。
こういう細かいところで傲慢さを隠そうとしないから、秀吉の死後に多くの大名が離れてしまったのでしょう。
秀秋を養子に迎える
帰国してしばらく経った後、小早川隆景には別の問題が持ち込まれました。
隆景の甥であり、毛利の当主でもある輝元が40歳になっていたのに、実子がなく跡継ぎが決まっていなかったのです。
それに目をつけた秀吉が「ならワシの甥を輝元の養子にくれてやろう。これで安泰じゃ!」と言ってきたのです。
どう見ても乗っ取る気満々ですね。
そこで隆景、まさに捨て身の策に出ます。
「申し訳ございません太閤様、ついこの前”輝元の跡は従弟の秀元が継ぐ”ことに決まりまして。
代わりといっては何ですが、私も跡継ぎに困っていたところですので、小早川に甥御様をいただきたく!」(※イメージです)
確かに隆景にも実子はおらず、道理は通っていました。
また、毛利秀元はその名が示す通り、秀吉のお気に入りであり、毛利の本家を継ぐことに対してケチをつけるのはさすがに無理があります。

毛利秀元/wikipediaより引用
結果、隆景の養子になったのが、後に関ヶ原の戦いで有名になる小早川秀秋です。
養子になった当時は「秀俊」と名乗っていました。
さらに隆景は、ダメ押しとして「毛利家の娘を秀俊様の妻に迎えていただければ、今後がより安心になりまする」と願い出ます。
秀吉の許可を得た上で元就の孫娘(隆景たちの同母妹・五龍局の娘)を輝元の養女とし、秀俊と結婚させました。
そして隆景は文禄四年(1595年)に家督と領地を秀俊に譲って隠居し、手早くこの問題を片付けるのです。
秀吉からは改めて筑前に5万石の隠居料を与えられました。
が、この後も朝鮮への兵糧調達や検地などの仕事をしており、実質的には隠居などしていません。
秀吉の方でも楽隠居などさせるつもりはなかったようで、文禄五年(1596年)9月、明からの使者が大坂城へやってきたとき、臨席した大名の中に隆景もいました。
この頃にはすっかり気分も良くなっていた反面、体力面では辛いようでした。
突然の逝去
体力面で辛い……というのも、明使の来日から一年も経っていない慶長二年(1597年)6月12日、小早川隆景は突然亡くなってしまうのです。
享年65。
本当に突然のことだったらしく、遺言も残されていなかったとか。
脳卒中や心筋梗塞のように、現代でもすぐに処置しないと亡くなってしまう病気が死因だったのかもしれませんね。
慶長二年2月からは慶長の役も始まっており、小早川秀秋も渡海していたと思われますので、小早川家はさぞ混乱したことでしょう。

小早川秀秋/wikipediaより引用
甥の吉川広家(元春の子)は、小早川家臣である堅田元慶宛の書状でこんな風に記しています。
「隆景様にはあと5~6年はお元気でいていただきたかった」(意訳)
毛利一族内における隆景の信頼の厚さがうかがえますね。
なんせ小早川家では後継者の秀秋がまだ年若い上に、秀吉が急激に体調を崩して亡くなってしまい、戦国史の大きな節目ともなった関ヶ原の戦いへとなだれ込んでいくわけです。
吉川広家は、毛利家の進退を実質的に決めた人ですから、おそらく徳川との連絡を取っていた頃も「隆景様が生きていてくださったら」と思っていたことでしょう。
豊臣政権中は、どうにもこうにも「ここでその人が死ぬのか……」という不幸が多い気がしてなりません。
秀吉の養子たち然り、堀秀政のような吏僚然り。
時代が時代ですし、偶然といえばそれまでなのですけれども。
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長月 七紀・記
【参考】
藤井讓治『織豊期主要人物居所集成〔増補第3版〕』(→amazon)
渡邊大門『山陰・山陽の戦国史 (地域から見た戦国150年 7)』(→amazon)
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
世界大百科事典