おそらく大多数の方が和食や着物などを思い浮かべそうですが、一つ強烈な風習というか武士独特の慣習を忘れてはいませんか。
そう、「切腹」です。
天正10年(1582年)6月4日に亡くなった清水宗治は、その最期が「切腹」だったことでよく知られた武将。
時に「武士の鑑」ともされますが、なぜそうした評価を得るに至ったのか?
豊臣秀吉による中国地方攻略のハイライトであり、毛利家にとっては三木の干殺し・鳥取の飢え殺しに続く悪夢「備中高松城水攻め」、その城主。
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清水宗治の生涯と最期を振り返ってみましょう。
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もともと毛利家の家臣ではなかったが
宗治は元々毛利家の家臣ではありませんでした。
三村家という備中(現・岡山県西部)の武士に仕えており、毛利元就の台頭で主家を見限って毛利家に従ったという経緯があります。
もっとも三村家は中枢人物ですら毛利家につくような状態だったので、元就と比較できるような器量の持ち主がいなかったのでしょうね。比較する相手が悪すぎますが。
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しかし、宗治はその真面目さで毛利家での存在感を高めていきます。
特に、元就三男・小早川隆景の配下で毛利家の中国掌握に貢献したため、隆景の信頼はひとしおでした。
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だからこそ、備中高松城という要衝を任されたのです。
ですが相手は常識も何もかも吹っ飛ばす秀吉。
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水攻めという前代未聞の攻城に対し、忠誠心だけでは太刀打ちできませんでした。
宗治殿の命と引き換えに城兵を救うには
では秀吉の水攻めは如何にして行われたか?
約3km四方を高さ7mもの塀で取り囲み、水没させたと史料にはあります(『川角太閤記』など)。
しかし実際は、およそ全長300mで可能なことが研究の結果明らかになっています。
兵数は備中高松城の5,000に対し、秀吉軍は20,000。
鳥取城のときの城内は「刀折れ矢尽きる」どころではなく、家畜や雑草を食べつくしてもなお飢えるという惨事に陥ったことを、宗治も伝え聞いていたことでしょう。
詳細は、歴女医まり先生の記事にお譲りしますが、あれを少しでも聞いていたら「二度と繰り返してなるものか」と思うはずです。
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そこへ秀吉から毛利方に対し「宗治殿の命と引き換えに城兵を助けよう」という降伏勧告がきたのですから、宗治に選択肢はありませんでした。
本能寺の一件は伝わった?それでも静観?
秀吉と安国寺恵瓊の交渉により定められた和睦の条件は4つでした。
①清水宗治の切腹(城兵の命は助ける)
②備中高松城を明け渡す
③毛利の五カ国を秀吉に割譲(実際は三カ国となる)
④毛利から人質を出す
実はちょうどこのときに【本能寺の変】が起きています。
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当然のことながら秀吉がひた隠しにしたため、毛利も宗治も信長の死を知らずにこの条件を飲んでいます。
いや、実際は毛利にも本能寺の一件が伝わっていた――という指摘もあるのですが、実際は、情報がかなり錯綜していて毛利方でも確信を持つに至れなかった可能性が高そうです。
毛利としても、アヤフヤな情報に乗って家全体の命運をかける余裕はありません。
というのも、実は備中高松城だけでなく毛利全体がピンチに陥っていたのです。
度重なる合戦で毛利家全体が疲弊していたばかりか、制海権を握られて物資の運搬が滞り、これ以上の戦争継続が不可能でした。
そこで秀吉から出された条件が決して悪くはない。渡りに船とばかりに和睦を結ぶほかありません。
ちなみに、毛利が本能寺の変について「織田信長は確かに死んでいる」という確証を得たとき、【中国大返し】を強行していた秀吉はすでに遠く離れた摂津尼崎(180km先)辺りにおり、もはやどうこうできる距離ではなかったと目されています。
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