織田家

織田信勝(信行)の生涯|信長に誅殺された実弟 最後は腹心の勝家にも見限られ

2024/11/01

永禄元年(1558年)11月2日は織田信勝の命日です。

織田信長の同母弟であり、以前は織田信行という表記のほうがメジャーでしたね。

いずれにせよ、この弟は信長にとっては好ましい存在ではありませんでした。

同じ父と母を持つ兄弟であるのに、二度に渡って謀反を起こそうとし、信長としても誅殺せざるを得ないような状況だったのです。

大河ドラマ『麒麟がくる』でも描かれましたが、さすがに忘れてしまった方も多いですかね。

ということで本記事では、信長の弟である織田信勝の生涯を振り返ってみたいと思います。

なお、同じ「おだのぶかつ」でも信長の次男は「織田信雄」であり、よろしければ以下の記事をご参照ください。

織田信雄
織田信雄(信長次男)の生涯|信長の血を後世に残した男は本当に愚将だったのか

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📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 

歴史に登場するのは14才のころから

織田信勝は信長のすぐ下の弟で、前述の通り母も同じ土田御前(どたごぜん)です。

父親は織田信秀。

生年はまだ確定しておらず、天文五年(1536年)説があります。

織田信秀

萬松寺の織田信秀木像(愛知県名古屋市)/wikipediaより引用

信長が天文三年(1534年)生まれで、後述する別の弟・織田秀孝が1541年頃の生まれなので、信勝は1535~1540年あたりで間違いはないでしょう。

さらには織田信勝の息子・津田信澄については弘治元年(1555年)生まれ説があり、信勝が15~20才ぐらいの頃に生まれた計算になるため、この点からも問題ないと思われます。

そんな織田信勝ですので、幼少期についてはあまり記録が残っていません。

歴史に登場するのは、父・織田信秀が健康を損なった後、天文十八年(1549年)あたりからのとなります。当人が14才前後のときですね。

当時は、信秀が居城としていた末森城に住んでおりました(TOP画像参照)。

天文二十年(1551年)9月20日には、織田信勝の名で熱田神宮寺座主に対して判物(武家が発行する花押付きの文書)を発給。

中身は、信秀や信長の出したものをほぼ踏襲する内容だったため、これが初めての公的な仕事だった可能性もあります。

文書に使われた信勝の花押(図案化された個々人特有のサイン)は、信秀と類似していたとか。

おそらく、このときまで、花押を使ったこともあまりなかったのでしょう。

天文5年(1536年)生まれとすれば元服して1~2年経つかどうかという頃合いですし、初々しさがうかがえますね。

この後しばらく、信勝は信秀の仕事を引き継ぐ形で、尾張の統治に関わっていくことになります。

 


嫡男は信長としたまま信秀が死亡

当時の信長は那古野城を譲り受けて半分独立しておりました。

織田信勝は信秀と同じ末森城に住み、仕事を引き継いでおります。

※左から清洲城(紫色)・那古屋城(黄色)・末森城(赤色)

となると、

「当主である信秀様に可愛がられているのは信勝様だ!」

「だから次の当主もきっと信勝様になる!」

「日頃の行いも、”大うつけ”とは天と地ほどの差がある!」

と、配下の者たちが思うのは自然の流れと言えなくもありません。

本人もそれに流されて、だんだん信長と争う気分になっていってしまったのでしょうか。元から仲が悪いのなら、そういった類の逸話も残ってるはずなのに、それもない。

信秀は、嫡男を信長としながらも、信勝の扱いをどうするのか?ということをハッキリ示さないまま亡くなります。

父の葬儀に、信長が荒くれ者のような格好でやってきて、父の位牌に抹香を投げつけるという乱暴な態度を取った……というのは、信長公記の最も有名なエピソードの一つ。

絵・富永商太

これに対し、織田信勝はきちんと衣服を正して行儀よく振る舞ったため、二人の評判の格差はより広がりました。

 

信勝には勝家 信長には秀貞

父の死後、末森城はそのまま織田信勝が住み続け、柴田勝家らの付家老も引き続き彼に仕えます。

家臣の格については、信長にも筆頭家老の林秀貞などがついていたので、互角と見るべきでしょうか。

ただ、この時点での秀貞は信勝派だったこともあり、心情的には信長が不利でした。

記録によれば天文二十二年(1553年)7月ごろまでは、信長と信勝の間に表立って大きな対立はなかったようです。

しかし、同年10月から、不穏な空気が漂い始めます……。

熱田の豪商に対し、信勝と信長が別々に判物を発給し始めて、いわば【経済戦争】が始まったのです。

家格や地勢において弱小の織田弾正忠家で、当時、唯一チカラの源となりえたのが「お金」。

それを巡る争いとなれば、本格的な対立は避けられません。

信長が旗印にも使った「永楽通宝」/photo by Galopin wikipediaより引用

ではなぜそんな状態になったのか?

これが、直接の原因も定かではありません。

天文二十二年といえば、閏1月に信長の「じいや」こと二番家老の平手政秀が自害したり、同年4月に信長と斎藤道三が初めて会見したり、戦以外でもそこそこ大きな動きがあった年です。

斎藤道三/wikipediaより引用

特に「道三が信長を気に入った」ことは、織田信勝にとって大きな脅威に見えたでしょう。

こうした複合的な要素が、彼に対するプレッシャーとなり、背中を押したのか。

加えて、二人の叔父(信秀の弟)である織田信光は、天文二十三年(1554年)11月に不慮の死を遂げています。

弾正忠家の家督争いは、かくして信長vs信勝に絞り込まれるのです。

 

我こそは織田家の正当なる当主である!

織田信勝は、この辺からイメージ戦略を始めました。

主君筋だった織田大和守家でよく使われていた「達」の字を使って「達成」と名乗りを改めたり、父と同じ「弾正忠」の官職を自称したり。

「我こそは織田家の正当なる当主であるぞ!!」

と、いわんばかりのアピールを始めたのです。

一方、信長は那古野城に身を寄せていた尾張守護の息子・斯波義銀を擁立しています。

詳細については以下の『信長公記』15話をご覧いただくとして、

尾張守護・斯波義統の暗殺|信長公記第15話

続きを見る

端的に述べますと、守護を囲い込んだワケですね。

この辺の力関係については、守護というより強固な神輿を担いだ信長のほうが有利といえるでしょう。

あくまで名目上ではありますが、序列としてはこうなります。

◆尾張守護(斯波氏)

◆織田大和守家(半守護代)

◆織田弾正忠家(信長と信勝の家)

 


弟の死を巡って考え方の異なる兄弟

二人の目の付け所の違いは、別の事件にも表れます。

弘治元年(1555年)6月、信長と信勝の弟である織田秀孝が、叔父・織田信次の家臣に誤殺されるという不幸な事故がありました。

織田信勝はこれを聞いて激高し、直ちに信次の居城・守山城の城下を焼き払わせています。

事の次第を聞いた信長が、

「俺の弟ともあろう者が、身分をわきまえずに一人で出歩いていたのだから、事故が起きても仕方ない」

と冷静に判断したのとは正反対の対応ですよね。

為政者としての視点は、この時点で信長のほうが上だといえます。

織田信長/wikipediaより引用

信次がしばらく行方をくらませたときは、守山城に、これまた信長と信勝の兄弟・織田信時(秀俊)が入りました。

しかし、信時は男色相手を寵愛しすぎて、年寄衆・角田新五にブチ切れられ、弘治二年(1556年)6月頃に切腹へ追いやられるという始末。

新五はこの後、【稲生の戦い】で信勝方についていることから、現代では「この件に信勝が関与したのではないか?」ともいわれています。

同じ兄弟なのに、秀孝と信時とでものすごい扱いの差をしていますが、これはおそらく母親が同じかどうかの違いから来ているのでしょう。

信長公記で、信時は「信長公の腹違いの兄・信広殿の弟」と書かれています。

となると、信勝にとっても信時は腹違いの兄弟になるわけです。

一方、秀孝の母親はハッキリわかっておりません。

信長・信勝と同じ土田御前だという説があります。同腹の兄弟であれば、良くも悪くも情が厚くなりやすいものですよね。

 

義龍の不穏な動きに合わせて裏切りを画策

少々時系列が前後しますが、弘治二年にはまた別の大事件がありました。

信長にとって舅であり最大の協力者でもあった斎藤道三が4月、長良川の戦いで討ち死にしてしまったのです。

道三を討ち取った斎藤義龍は、尾張上四郡の半守護代・岩倉織田氏などに接近し、信長を追い詰めようと動き始めます。

斎藤義龍/wikipediaより引用

敵の敵は味方といわんばかりに、織田信勝も同年8月に信長への反旗を翻しました。

これが【稲生の戦い】です。

柴田勝家(左)と織田信長の肖像画
稲生の戦いで信長vs信勝と勝家|信長公記第19話

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柴田勝家や林美作など、信勝方の重臣も参加しておりましたが、結果は信長方。

勝家は敗走、美作は討ち死に、という、完全な敗北でした。

その後、末森城に攻め寄せた信長に対し、信勝は籠城戦に持ち込もうとしますが……。

ここで二人の母・土田御前の仲介で、信勝が詫びを入れ、柴田勝家や林秀貞とともに赦免されました。

 


男色にうつつを抜かして勝家に呆れられて

この敗北により、しばらく鳴りを潜めた織田信勝。

それは軍事行動をしていなかっただけの話でした。

独自の判物発給や、斎藤義龍との連絡など、不穏な動きが続きます。

これでは「詫びを入れたのは口先だけ」と思われても仕方がありません。

さらに、永禄元年(1558年)3月、織田信勝は竜泉寺城の築城をスタート。

こんな態度を取り続けた上に、軍事拠点を作ろうとしたのでは、信長に再度ケンカを売るも同然です。

早速ぶっ潰す!

とはならず、信長公記では同じ頃、信勝が男色相手を寵愛し、他の家臣たちを軽んじ始めたため柴田勝家が虚しい気持ちを抱くようになり、信長に鞍替えしたとされています。

猛将として知られた柴田勝家/Wikipediaより引用

そこで信長がついに一計を案じました。

仮病で織田信勝をおびき寄せ、謀殺したのです。

真面目に仕えてきて、実績も上げていた勝家をないがしろにした時点で、勝負は決まっていたのでしょう。

どうも信勝は「信長さえ戦で倒せばいい」というところまでしか見えていなかったように感じられます。

これでは仮に織田家を継いだとしても、早晩滅びたに違いありません。

👉️ 織田信長は何度“暗殺”に狙われたのか?

信勝の人となりを伝える史料は少ないため、彼の価値観等については、信長公記その他のわずかな記述から推し量るしかないのですが……。

二つほど鍵になりそうな話が伝わっています。

 

鷹を使わずに鷹狩とは

一つの特徴は【鷹狩り】です。

信長・信勝兄弟で、唯一共通しているのが「鷹狩りを非常に好み、上手かった」ということでした。

信長も少々変わったやり方で鷹狩りをしておりましたが、信勝はさらに独特で、なんと飼いならした百舌鳥(モズ)を用いていたというのです。

獲物を枝に突き刺す【はやにえ】をすることで有名な鳥ですね。割とグロいので、画像検索する方はご注意を。

残念ながら、百舌鳥を使ってどのように鷹狩りをしていたのかまでは不明です。

この漢字があてられている由来が「様々(百)の鳥の鳴き声を真似られる」といわれるほど複雑な鳴き方をするから、というものなので、鳴き声を活かすようなやり方だったのかもしれません。

本来なら鷹だけで充分なはずなのに、わざわざ百舌鳥を使うからには、その特徴を利用していたでしょう。

百舌鳥のような小さな野鳥の場合、野生での寿命は1年数ヶ月ほどです。飼育下での寿命は伸びる傾向がありますが、戦国時代当時の技術・知識ではさほど長生きはさせられない。

となると、織田信勝は複数の百舌鳥を飼いならして、常にキープしていたことになります。

よほど自分のやり方に自信があったのでしょう。

本人に能力や独自の価値観があり、父・信秀から一定以上の権益を譲られ、家臣からの支持もある……。

となれば「次の弾正忠家当主は当然俺だ!」と思うのは仕方のないことだったかもしれません。

逆に、そこまでピースが揃っていた信勝より、ボロカスな評判だった信長を嫡男とした信秀のほうが不思議に思われていたでしょう。

信秀の死因や没年には諸説あるのですが、もしかしたら焦れた織田信勝による暗殺だったりして……なんてのは飛躍しすぎですかね。

信勝(信行)の居城だった末森城址/wikipediaより引用

 


父の信秀と共に白山信仰に帰依する

もう一つは、白山信仰について。

白山信仰とは、

・加賀(石川)
・越前(福井)
・美濃(岐阜県)

にまたがる白山への山岳信仰のことです。

ここから九頭竜川・手取川・長良川など、四方へ流れる川の水で周辺地域の田畑が豊かになっていると考えられ、神格化しました。

信勝は、白山信仰と関わりの深い長瀧寺(ちょうりゅうじ・ながたきでら)に仏像を寄進したことがあったようで、その銘の写しが現存しています。

信秀も白山信仰に帰依していたため、親子で引き継いだのかもしれません。

ちなみに、白山信仰の主祭神は菊理媛命(ククリヒメノミコト・キクリヒメノミコト)といいます。

古事記では一瞬しか登場しない神様です。

どんな神様か?
と申しますと、ほんのチョットしか出てきません。

伊弉冉尊(イザナギノミコト)が、お産で亡くなった妻・伊弉諾尊(イザナミノミコト)を追って、黄泉の国へ行き、「私はもう現世には帰れません」と伝言されたとき、

【菊理媛命が「何か」を言ったとされる】

という、本当に一文しか出てきません。

具体的に何を言ったのかは書かれていません。

それを聞いた伊弉諾尊が菊理媛命を褒め、黄泉の国から帰っていったということになっているので、よほど説得力のある何かを言ったのでしょう。

このことから、菊理媛命は仲直り→縁結びの神とされています。

織田信勝の生涯や立場を考えると、なんとも皮肉なものです。

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【TOP画像】小久ヒロ

【参考】
太田牛一/中川太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
織田信行/日本人名大辞典
織田信行/wikipedia
白山信仰/wikipedia
長瀧寺/wikipedia
白山比咩神社(→link
モズ/wikipedia
日本野鳥の会-BIRD FAN(→link

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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