個性豊かな織田家臣団の中で、とりわけ信長に重視されていたこの4人。
・丹羽長秀
・豊臣秀吉
・柴田勝家
・佐久間信盛
彼らには、その特徴を示すあだ名がありました。
「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」
割と言葉のまんまだと思いますが、ザックリ説明しますと、以下のようになります。
・豊臣秀吉(藤吉)は木綿のように丈夫で使い勝手が良い
・丹羽長秀はお米のように何にでも合い、織田家に欠かせず
・柴田勝家は戦場では先陣を切って突撃するツワモノ
・佐久間信盛は「退却戦」が得意
今回は天正13年(1585年)4月16日が命日となる丹羽長秀に注目――。
知名度や人気では勝家や秀吉に劣るものの、信長からの評価は決して低くない……どころか最も信頼された家臣だったのかもしれません。
「五郎左」というのは「五郎+左衛門尉(官位名)」の略称となりますが、ともかくその生涯を振り返ってみましょう。

丹羽長秀/wikipediaより引用
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丹羽長秀は友であり マジで親戚でもある
丹羽長秀は天文四年(1535年)生まれ。
織田信長(1534年生まれ)のひとつ下で、非常に歳の近い家臣でした。
丹羽家は元々尾張守護・斯波氏の家臣で、途中から主君を織田家に鞍替えしたとされています。信長家臣団の中では、割と出自がはっきりしているほうですね。
天文十九年(1550年)頃から信長に仕えると、生涯一度も背信することなく、各地を転戦し続けました。
ちなみに柴田勝家はもともと信長の弟・織田信勝(織田信行)の家臣で信長を排除しようとしたことがありましたし、秀吉も実は最初の主君が信長ではありません(今川家傘下の松下長則に仕えていた)。
年齢の近さと、長秀の誠実ぶり。
それが信長にとっては何物にも代え難い存在だったのでしょう。
「長秀は友であり、兄弟」と評したという逸話が残るほどです。

織田信長/wikipediaより引用
さらには長秀の正室が信長の養女(姪っ子)であり、息子の丹羽長重に至っては信長自身の娘・報恩院と結婚するという二重の縁で結ばれているのです。
ご多分に漏れず信長も、政略結婚であちこちへ娘や養女を嫁がせていますが、同じ家臣の家と二回結婚したのは丹羽家だけ。
誼を結ぶだけなら一回でいいのですから、「アイツとその息子は信頼できる」と思ったからこその判断でしょう。
事実、永禄元年(1558年)頃からは、重要な手紙への署名などで、長秀の名前が登場するようになります。
この時期は、柴田勝家などと共に、お寺の領地を安堵する役目を担っておりました。
実は、永禄元年というと、信長は弟・信勝の始末を終えたころ。
天下どころか尾張一国の掌握さえも危うかった頃から、丹羽長秀は信頼されていたんですね。
重要拠点・佐和山城主を務める
美濃攻めでは投降してきた斎藤氏家臣を信長に仲介したり、猿喰城・堂洞城での戦いで活躍しております。
永禄十一年(1568年)に、信長が足利義昭を奉じた上洛戦でも、兵を率いて参加しておりました。

足利義昭/wikipediaより引用
無事に上洛を果たした後、長秀は朝廷への使者や、畿内の行政、寺院や周辺大名への所領安堵など、さまざまな仕事をこなしております。
まさに文武両道のユーティリティプレイヤーですね。
もちろん失敗がなかったわけではありません。
永禄十二年(1569年)の伊勢侵攻では、稲葉一鉄や池田恒興とともに大河内城への夜襲をかけて、敗走するという出来事がありました。
時系列が前後しますが、天正元年(1573年)の朝倉氏との戦いでは、敵の退却を見逃してしまい、信長に叱責されたことがあります(ただし、他の同僚家臣たちも叱られている)。
しかしこれらは、長秀の仕事ぶりと比較すれば、ほんの小さなキズにすぎませんでした。
元亀年間に入り、織田家が本格的に浅井長政や朝倉義景の両氏と激突するようになると、長秀は要所の押さえとして活躍する機会が多くなっていきます。

浅井長政/wikipediaより引用
姉川の戦いや、浅井家臣・磯野員昌(いそのかずまさ)のこもっていた佐和山城攻めなどにも参加。
員昌が降伏した後は同城の主に任じられました。
”琵琶湖の南側を通って、岐阜と京都を往復するルート”としてこのエリアをみた場合、佐和山城はおおよそ中間地点にあります。
さらに、浅井氏の本拠である小谷城とも近いところです(※以下の地図参照)。
・黄色=岐阜城(信長本拠地)
・赤色=小谷城(浅井家本拠地)
・青色=佐和山城(長秀の城)
二重の意味で重要なところを任されているわけですから、信長の長秀に対する信頼ぶりがうかがえるでしょう。
ほかにも兵の移動に使う舟の調達などは、長秀がよく任された仕事でした。
一見単純に見える役割ですが、大量に・素早くモノを製造&移動させるのは、戦国時代においてなかなか難しいことです。
材料の確保も製造も、一般人の協力が必要不可欠。依頼する側の態度如何で、敵を増やしかねません。
天正元年(1573年)に信長と将軍・足利義昭の対立が深まり、武力衝突に至ったときは、長秀が建造を請け負った舟が信長の足にもなっています。
なお、義昭を京から追い出すことになった最終戦は【槇島城の戦い】と呼ばれ、長秀も攻め手の一人として参加しておりました。
「拙者は生涯、五郎左のままで結構」
天正元年(1573年)9月、長秀は信長より若狭をまるごと与えられました。
実は、織田家の家臣で最初に「一国の主」になったのは明智光秀でも、豊臣秀吉でも、柴田勝家でもありません。
丹羽長秀です。
後の活動から察するに、居城は佐和山城のままだったと思われます。

佐和山城図/wikipediaより引用
近江から見て若狭は、そう遠くはありませんが、それでも遠隔地の行政はなかなか難しいものです。
これを長秀は大きな混乱も起こさず、うまくこなしてみせました。
若狭には”若狭武田氏”という守護大名がいたのですが、当時の当主・武田元明が若年だったことと、信長の威勢により抑え込めたようです。
かくして様々な仕事をほぼ完璧にこなしながらも、長秀は決して自分を過信・過剰評価することもありませんでした。
こんな話があります。
天正三年(1575年)、朝廷から信長に対し、官位昇進の勅諚(天皇からの許可)が出たことがあります。
信長はこれを辞退する代わりに、家臣達へ官位や名誉ある姓をもらえるよう願い出ました。
羽柴秀吉には「筑前守」の官位。
明智光秀に九州の名族の姓「惟任(これとう)」。
長秀にも九州の名門「惟住(これずみ)」を名乗ることが許されたのですが……断ります。
このときの言い分がまた彼らしいもので「拙者は生涯、五郎左のままで結構」と言っていたそうです。
安土城普請の総奉行を任されて
五郎左のままで結構――。
というのは世間的な地位や名誉などいらないから、ずっと信長や織田家のために働きたい……という意味だったのでしょう。
最終的には信長のゴリ押しによって、長秀はこれを受け入れたものの、欲のなさがわかるエピソードです。
長秀に姓だけが許され、官位が与えられていないことから、
「信長は長秀を高く評価していなかった」
とする向きもあるようですが、それは違うと思われます。
なぜなら、天正四年(1576年)から始まった信長の一大事業【安土城の普請】では、長秀が総奉行を務めているからです。
もしも評価が低かったら、地下一階・地上六階という、現代建築にも匹敵する巨城の最高責任者を任せるはずがありません。
なんせ官位を与えられた羽柴秀吉も、安土城普請では長秀よりも下の縄張奉行とされています。
むしろ家臣間のパワーバランスを取るために、信長は長秀への官位を願い出なかった……と見るべきではないでしょうか。
戦場のような派手な仕事ではない。
その代わりに、安土城普請は長秀の誇りとなったことでしょう。
本来は天守(安土城では”天主”)には象徴的な意味合いが強く、住居として使われないものでしたが、信長は安土城の天主で日常生活を送っていたといわれています。
長秀以下、天主建築に携わった人々が、本当に良い仕事をしたのでしょうね。
有能な補佐役として
長秀のようなナンバー2タイプだと、時に、いまいち能力や人望が足りなかったからトップになれなかった――そんな評価が下されるかもしれません。
それは逆のような気がします。
非常に優れた能力だったからこそ、安心できる補佐として常に二番手・三番手の位置に据えられたとも考えられる。
例えば、天正八年(1580年)の北陸一揆攻めでは、若狭・小浜の地で船運をコントロールし、加賀一向一揆勢に物資が補給できないようにしています。
ほかにも裏切り者や態度が曖昧だった大名の始末なども、長秀がよく任されていました。
後者はあまり気分の良い仕事ではありませんが、長秀が冷静に仕事をこなせる人物だからこそでしょう。
ヘタに情が厚い人物に任せてしまうと、助命嘆願などをして信長の逆鱗に触れたり、こっそり命を助けたりして、後々への禍根になりかねません。
比叡山焼き討ちの際にも、秀吉がこっそり助けた僧や一般人がいたらしいという話もあります。
信長の目をかいくぐろうとする者は、いくらでもいたはず……というか、殺害命令を出された黒田官兵衛の息子・松寿丸(黒田長政)を、竹中半兵衛が匿っていたこともありましたね。

竹中半兵衛(左)と黒田長政/wikipediaより引用
上記の一件は、信長の早とちりというか、状況的には仕方ないんですけど、すべてがそういうケースばかありじゃありませんしね。
やはり信頼関係が大事なのでしょう。
重要イベント御馬揃えでは先頭に抜擢
天正九年(1581年)の【京都御馬揃え】では、なんと長秀が一番に入場しています。
「御馬揃え」とは、簡単に言えば軍事パレードのこと。
このときは正親町天皇や多くの皇族・公家も居並ぶ、織田家の名誉をかけたものでした。

正親町天皇と織田信長/wikipediaより引用
織田家の威信をかけた御馬揃えですから、当然、その先頭は最も優れていて、そつなくこなせる人物でなければなりません。
キャラクター豊かな織田軍団の中にあって先頭。
能力の高さだけでなく、他の諸将から見ても「長秀さんならしゃあないっすね」と周囲を納得させる心情もあったかもしれません。
いずれにせよ普通ではできないことでした。
四国に渡ろうとした、まさにそのとき
天正十年(1582年)2月になると、織田軍は甲州征伐を始めました。
武田勝頼率いる武田家の領地へ直接攻め入り、これを滅ぼしたのです。

武田勝頼/wikipediaより引用
長秀は、総大将の織田信忠軍ではなく、後詰めとして向かった信長軍の一員として参加しておりました。
そのため戦功はさほどなかったようですが、武田家滅亡の後、草津温泉での湯治を許されています。
他に堀秀政・多賀常則も一緒だったそうなので、信長なりに器用なタイプの家臣たちを気遣ったのかもしれませんね。
堀秀政は「名人久太郎」と呼ばれ、信長の側近から大名になった名将。
多賀常則はあまり出自や消息のはっきりしていない人物ですが、元浅井氏の家臣で、元亀元年(1570年)までには信長に仕えていたと考えられています。
甲州征伐からおよそ3ヶ月後。
丹羽長秀は、四国攻めに向かう信長の三男・織田信孝、そして信長の甥である津田信澄と共に大坂に滞在していました。
この直前には安土城で徳川家康の接待をしており、大坂でも家康の応対を務めています。
信孝らと合流したのはその後でしょう。いかに丹羽長秀が万能タイプとはいえ、信長はちょっと仕事をさせ過ぎな感もありますね。
長秀は信孝を補佐して、四国に渡り、長宗我部元親の攻略にあたる予定でした。
いやいや、長宗我部元親はすでに織田家に屈しており、挨拶程度の行軍だった――という見方もあります。
いずれにせよ、そのタイミングで長秀の人生も激変します。
本能寺の変が起きたのです。

『真書太閤記 本能寺焼討之図』(渡辺延一作)/wikipediaより引用
本能寺の変から山崎へ
天正10年(1582年)6月2日。
信長の死後――事態はにわかに動きます。
丹羽長秀はまず織田信孝の意向を汲み、近隣にいた津田信澄に襲いかかって、自害させました。
ややこしいことに信澄は信長の甥っ子であると同時に、明智光秀の婿でもあったのです。
しかも、信澄の父は、かつて織田信長が殺害した織田信行ですから、甥っ子と言っても信長サイドから見れば微妙な関係だったのですね。
光秀は他の縁戚にも根回しをしていなかったようなので、おそらく信澄は無関係だったでしょう。
それでも殺されたのはスケープゴートかと思われます。
長秀はその後、【山崎の戦い】で秀吉に付き、早い時期に立ち位置を安定させました。

「山崎合戦之地」の石碑(天王山/京都府乙訓郡大山崎町)
清州会議
清州会議では若狭に加え、近江の滋賀・高島の二郡を安堵され、大溝城(高島郡)に移りました。
ここは信澄の居城でもありましたので、信澄の家臣たちを牽制する意味もあったのでしょう。
長秀は織田家の中で、勝家に続く「二番家老」という立ち位置でしたから、主君の仇討ちをした秀吉にとっては目の上のたんこぶに近い状態です。
それでも決して衝突しようとはせず、事後処理も秀吉ほか多くの武将と協力して行っています。
書状などでは、自ら秀吉に許可を求めるような、へりくだった書き方をしているものも珍しくありません。
「”羽柴”という姓の”羽”は長秀にあやかろうとしたもの」
ともされていますので、秀吉も多少は長秀を立てる気持ちもあったでしょう。
本人には野心がなかったからか。
長秀はその後も秀吉派として動きました。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
織田家内での立場は依然として長秀が上だったものの、実力は秀吉のほうが上になっており、ねじれた関係と言えます。
秀吉が発行した禁制に、ほとんど長秀の署名があることがその証左です。
この頃の長秀は「織田家筆頭」という立場を秀吉に利用されていたのでした。当然、長秀にとってはあまり面白くはなかったでしょうが……。
勝家と秀吉は衝突を回避できず
天正十一年(1583年)【賤ヶ岳の戦い】でも、秀吉方についています。
戦場へ軍を進めたわけではなく、牽制の役目を果たしたのです。
本当は、勝家と秀吉の間に立ち、なんとか関係を修繕させようともしていたのですけれども……いかんせん、この二人は元々衝突する要因が多すぎました。

柴田勝家(左)と豊臣秀吉/wikipediaより引用
勝家は、信長の父・織田信秀から仕え、北陸方面を全般的に任されていた織田家の宿老。
かたや秀吉は、実力こそ充分にあるものの、どこの馬の骨ともわからない出自(少なくとも勝家より低い)。
加えて、信長存命中の天正五年(1577年)に大きな衝突がありました。
能登畠山氏を救援するため、勝家と秀吉、そして長秀ら多くの織田軍が戦場へ向かったとき、秀吉が勝手に戦線離脱したのです。
詳細は不明ながら「秀吉は日頃から勝家と折り合いが悪く、行軍中に仲違いした」からだと言われてます。
「”羽柴”の”柴”の字は勝家からとった」
そんなエピソードと矛盾するようですが、両者の関係が前々から悪かったことがうかがえますね。
家中での力関係や次世代への影響が絡むとなれば……これはもう長秀でもどうしようもなかったでしょう。
結果、賤ヶ岳の戦いでは秀吉が勝利をおさめ、勝家は滅びました。
また、秀吉が従四位下参議の官職についた際、上洛を命じられて応じなかったことはありますが、このときもすぐに長秀から和解のための使者が送られ、大事には至っておりません。
小牧・長久手の後に死を迎え……
運命の分かれ道になりそうだったのは天正十二年(1584年)でしょうか。
秀吉と、織田信雄・徳川家康がぶつかり、小牧・長久手の戦いが勃発します。

『小牧長久手合戦図屏風』/wikipediaより引用
丹羽長秀は、この戦場へは出向いてはおりません。
北陸の一向一揆に備えるためでした。
加賀にいた前田利家も、同じ理由で自領に留まっています。
ただし、長秀の場合はこうも考えられます。
【一緒に三法師を守り立てていくつもりだったのに、秀吉が自ら天下人になろうという欲をあからさまに出してきたので、それに抵抗していた】
長秀は小牧・長久手の戦いが終わっておよそ半年後、天正十三年(1585年)4月16日に亡くなっているのですが、その際の逸話がなんとも物騒、かつグロテスクなのです。
いわく
【腹にできたしこりの痛みに耐えきれず、また秀吉への恨みの念から、自らしこりをえぐり出して秀吉に送りつけた】
とか。
実際にそんなことができるかどうかはさておき、長秀が最晩年に秀吉をよく思っていないという言動をしていたからこそ、このような話が伝えられているのでしょう。
小牧・長久手の戦いあたりから「長秀はガンにかかっていた」と推測されているので、”しこりができていた”というところまでは事実かもしれません。
徳川家康も、最晩年は「腹の上から触れられるくらいのしこりがあった」という記録があります。

徳川家康/wikipediaより引用
家康の場合は他の症状と併せて、死因は胃ガンだったろうといわれていますが、長秀については”恨み”のエピソードが強すぎるためか、確定していません。
寄生虫病だったという説もありますね。
一族の血筋は皇室にも受け継がれた
一方、秀吉のほうは、長秀との和解を考えていたフシもあります。
長秀の病が重くなったと聞いて、竹田定加(たけだじょうか)という医師を派遣しているのです。
定加は秀吉の母・大政所を診察したこともあるので、秀吉が信頼していた医師であることは間違いありません。
そういう名医を送ったということは「今後も長秀と良い関係を築きたい」と考えていた可能性が高いでしょう。
ただし秀吉は、長秀の子・丹羽長重の代に大きく領地を削っているので、丹羽家を大大名として残すつもりはなかったようで……。
血筋は残り続けました。
長秀の直系男子は江戸時代に断絶していますが、三男・丹羽高吉が藤堂氏の分家・名張藤堂家の祖となり、続いています。
また、六男の家系も存続しました。
さらに、正室生まれの娘・定光院が稲葉氏に嫁ぎ、その子孫が仁孝天皇となっています。つまり長秀は、現在の皇室にとっても先祖の一人なのです。
血を残すことが武家の最大の使命であるとするならば、長秀は十二分に“勝ち組”といえるでしょう。
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国史大辞典
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