丹羽長秀/wikipediaより引用

織田家 信長公記

信長に「友であり兄弟」と言われた 丹羽長秀65年の生涯をスッキリ解説

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織田家の威信をかけた御馬揃えですから、当然、その先頭は最も優れていて、そつなくこなせる人物でなければなりません。

キャラクター豊かな織田軍団の中にあって先頭。
能力の高さだけでなく、他の諸将から見ても「長秀さんならしゃあないっすね」と周囲を納得させる心情もあったかもしれません。

いずれにせよ普通ではできないことでした。

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四国に渡ろうとしたとき本能寺で……

天正十年(1582年)2月になると、織田軍は甲州征伐を始めました。
武田勝頼率いる武田家の領地へ直接攻め入り、これを滅ぼしたのです。

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長秀は、総大将の織田信忠軍ではなく、後詰めとして向かった信長軍の一員として参加しておりました。

そのため戦功はさほどなかったようですが、武田家滅亡の後、草津温泉での湯治を許されています。
他に堀秀政・多賀常則も一緒だったそうなので、信長なりに器用なタイプの家臣たちを気遣ったのかもしれませんね。

多賀常則はあまり出自や消息のはっきりしていない人物ですが、元浅井氏の家臣で、元亀元年(1570年)までには信長に仕えていたと考えられています。

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甲州征伐からおよそ3ヶ月後。
丹羽長秀は、四国攻めに向かう信長の三男・織田信孝、そして信長の甥である津田信澄と共に大坂に滞在していました。

この直前には安土城で徳川家康の接待をしており、大坂でも家康の応対を務めています。
信孝らと合流したのはその後でしょう。いかに丹羽長秀が万能タイプとはいえ、信長はちょっと仕事をさせ過ぎな感もありますね。

長秀は信孝を補佐して、四国に渡り、長宗我部元親の攻略にあたる予定でした。
いやいや、長宗我部元親はすでに織田家に屈しており、挨拶程度の行軍だったーーという見方もあります。

いずれにせよ、そのタイミングで長秀の人生も激変します。

本能寺の変が起きたのです。

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織田家臣筆頭のポジションを利用された!?

1582年6月2日。
信長の死後。
事態はにわかに動きます。

丹羽長秀はまず信孝の意向を汲み、近隣にいた津田信澄に襲いかかって、自害させました。
ややこしいことに信澄は信長の甥っ子であると同時に、明智光秀の婿でもあったのです。

しかも、信澄の父は、かつて織田信長が殺害した織田信行ですから、甥っ子と言っても信長サイドから見れば微妙な関係だったのですね。

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光秀は他の縁戚にも根回しをしていなかったようなので、おそらく信澄は無関係だったでしょう。
それでも殺されたのはスケープゴートかと思われます。

長秀はその後、山崎の戦いで秀吉に付き、早い時期に立ち位置を安定させました。

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清州会議では若狭に加え、近江の滋賀・高島の二郡を安堵され、大溝城(高島郡)に移りました。ここは信澄の居城でもありましたので、信澄の家臣たちを牽制する意味もあったのでしょう。

長秀は織田家の中で、勝家に続く「二番家老」という立ち位置でしたから、主君の仇討ちをした秀吉にとっては目の上のたんこぶに近い状態です。

それでも決して衝突しようとはせず、事後処理も秀吉ほか多くの武将と協力して行っています。
書状などでは、自ら秀吉に許可を求めるような、へりくだった書き方をしているものも珍しくありません。

「”羽柴”という姓の”羽”は長秀にあやかろうとしたもの」
ともされていますので、秀吉も多少は長秀を立てる気持ちもあったでしょう。

本人には野心がなかったからか。
あるいは秀吉が三法師(信長の嫡孫・後の織田秀信)を支持したからなのか。

長秀はその後も秀吉派として動きました。
織田家内での立場は依然として長秀が上だったものの、実力は秀吉のほうが上になっており、ねじれた関係と言えます。

秀吉が発行した禁制に、ほとんど長秀の署名があることがその証左です。
この頃の長秀は「織田家筆頭」という立場を秀吉に利用されていたのでした。当然、長秀にとってはあまり面白くはなかったでしょうが……。

 

勝家と秀吉は衝突を回避できなかった

天正十一年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでも、秀吉方についています。
戦場へ軍を進めたわけではなく、牽制の役目を果たしたのです。

本当は、勝家と秀吉の間に立ち、なんとか関係を修繕させようともしていたのですけれども……いかんせん、この二人は元々衝突する要因が多すぎました。

勝家は、信長の父・織田信秀から仕え、北陸方面を全般的に任されていた織田家の宿老。
かたや秀吉は、実力こそ充分にあるものの、どこの馬の骨ともわからない出自(少なくとも勝家より低い)。

加えて、信長存命中の天正五年(1577年)に決定的な衝突がありました。

能登畠山氏を救援するため、勝家と秀吉、そして長秀ら多くの織田軍が戦場へ向かったとき、秀吉が勝手に戦線離脱したのです。
詳細は不明ながら
「秀吉は日頃から勝家と折り合いが悪く、行軍中に仲違いした」
からだと言われてます。

「”羽柴”の”柴”の字は勝家からとった」
そんなエピソードと矛盾するようですが、両者の関係が前々から悪かったことがうかがえますね。

家中での力関係や次世代への影響が絡むとなれば……これはもう長秀でもどうしようもなかったでしょう。
結果、賤ヶ岳の戦いでは秀吉が勝利をおさめ、勝家は滅びました。

また、秀吉が従四位下参議の官職についた際、上洛を命じられて応じなかったことはありますが、このときもすぐに長秀から和解のための使者が送られ、大事には至っておりません。

 

小牧・長久手の後に死を迎え……

運命の分かれ道になりそうだったのは天正十二年(1584年)でしょうか。
秀吉と、織田信雄・徳川家康がぶつかり、小牧・長久手の戦いが勃発するのです。

丹羽長秀は、この戦場へは出向いてはおりません。

北陸の一向一揆に備えるためでした。
加賀にいた前田利家も、同じ理由で自領に留まっています。

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ただし、長秀の場合はこうも考えられます。

【一緒に三法師を守り立てていくつもりだったのに、秀吉が自ら天下人になろうという欲をあからさまに出してきたので、それに抵抗していた】

長秀は小牧・長久手の戦いが終わっておよそ半年後、天正十三年(1585年)4月16日に亡くなっているのですが、その際の逸話がなんとも物騒、かつグロテスクなのです。

いわく
【腹にできたしこりの痛みに耐えきれず、また秀吉への恨みの念から、自らしこりをえぐり出して秀吉に送りつけた】
とか。

実際にそんなことができるかどうかはさておき、長秀が最晩年に秀吉をよく思っていないという言動をしていたからこそ、このような話が伝えられているのでしょう。

小牧・長久手の戦いあたりから「長秀はガンにかかっていた」と推測されているので、”しこりができていた”というところまでは事実かもしれません。

徳川家康も、最晩年は「腹の上から触れられるくらいのしこりがあった」という記録があります。
家康の場合は他の症状と併せて、死因は胃ガンだったろうといわれていますが、長秀については”恨み”のエピソードが強すぎるためか、確定していません。

寄生虫病だったという説もありますね。

 

一族の血筋は皇室にも受け継がれた

一方、秀吉のほうは、長秀との和解を考えていたフシもあります。

長秀の病が重くなったと聞いて、竹田定加たけだじょうかという医師を派遣しているのです。

定加は秀吉の母・大政所を診察したこともあるので、秀吉が信頼していた医師であることは間違いありません。
そういう名医を送ったということは「今後も長秀と良い関係を築きたい」と考えていた可能性が高いでしょう。

ただし秀吉は、長秀の子・丹羽長重の代に大きく領地を削っているので、丹羽家を大大名として残すつもりはなかったようで……。

丹羽長重/wikipediaより引用

血筋は残り続けました。

長秀の直系男子は江戸時代に断絶していますが、三男・丹羽高吉が藤堂氏の分家・名張藤堂家の祖となり、続いています。
また、六男の家系も存続しました。

さらに、正室生まれの娘・定光院が稲葉氏に嫁ぎ、その子孫が仁孝天皇となっています。
つまり長秀は、現在の皇室にとっても先祖の一人なのです。

血を残すことが武家の最大の使命であるとするならば、長秀は十二分に“勝ち組”といえるでしょう。

長月 七紀・記

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戦国武将データベース

【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link

 



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