金森長近/wikipediaより引用

織田家

金森長近85年の生涯をスッキリ解説!信長親衛隊 赤母衣衆から大名へ

更新日:

織田信長の家臣には、当然のことながら様々なタイプがおりました。

柴田勝家羽柴秀吉のように、一地方の攻略を任された者。
滝川一益前田利家のように、織田家親族や最高責任者の与力・目付のような立ち位置で、各方面の攻略に力を発揮した者。

そして、彼らほどの責任は負わされていなくとも、信長の信頼厚く、要所要所で登場する者です。

今回注目の金森長近はこのタイプ。
現代における知名度は決して高くありませんが、ところどころでキラリと光る武将です。

 

金森長近は美濃源氏土岐氏の出自

金森長近は、大永四年(1524年)に現在の岐阜県多治見市で生まれました。

年齢は信長よりもちょうど10歳上。
滝川一益とほぼ同年齢という年代です。

金森氏は、美濃源氏土岐氏の支流にあたる家柄でした。

長近の先祖は、応仁の乱で西軍方についていた土岐氏の一人・大畑定近。
彼が一族揃って美濃を離れ、現在の滋賀県守山市金森町に移り、「金森采女」と名乗り始めたとされます。

ご存知の通り、武家が土着先の土地名を名字にすることは多々あり、例えば

武田信玄の武田氏(常陸国武田郷)
新田義貞の新田氏(上野国新田荘)
足利尊氏の足利氏(下野国足利荘)

など、数え上げたらキリがありません。

例が東国の源氏ばかりになってしまいましたが、ともかく金森長近は、出自の曖昧な有力家臣が多い織田家にあって、割と由緒正しい家の人なんですね。

蛇足ながら、長近の兄弟には「落語の祖」とされる安楽庵策伝もいます。

本職は僧侶ですが、説教に笑い話を取り入れ、身分の上下問わず付き合い、顔の広い人物だったとか。
長近も後年、茶の道などに通じるようになるので、文化的なものが好きな血筋だったのかもしれませんね。

 

うつけ者と呼ばれていた信長に躊躇なく仕えて

金森長近の父・定近は土岐氏に仕え、後継者争いの余波で美濃から近江に移りました。
長近も、天文十年(1541年)までは近江にいたようです。

18歳のとき、長近は近江を離れ、信長の父・織田信秀に仕え始めたといわれています。

織田信秀(信長の父ちゃん)は財テク名人で似た者親子!道三や義元相手に大暴れ

な ...

続きを見る

残念ながら、キッカケになるような出来事は伝わっておりません。
当時の価値観では立派な大人ですし、独り立ちしたということでしょうか。

信秀が亡くなった後、長近はすぐ信長に仕えており、これが中々の英断でした。

”当時の”信長といえば、尾張国内どころか周辺地域の上から下まで「うつけ者」と呼んでいた人物です。
特にこの間の逸話もないので、長近はトラブルや逡巡もなく、信長に仕えたのでしょうね。

信長からも信用を得ていたようで、永禄二年(1559年)に信長が初めて上洛したとき、金森長近も同行者の一人に選ばれています。

当時の上洛はいわゆる「お忍び」で、兵を率いるような大々的なものではなく、お供はたった80人。
当然、信長からの信頼が厚かった者ばかりでしょう。

それを示すポイントがもう一つあります。

このとき、美濃の斎藤義龍が、信長を暗殺するための刺客を放っていました。

幸い、信長一行の後を追いかけてきていた尾張からの使者・丹羽兵蔵が、このことに気付いて機転を利かせ、信長に知らせることで難を逃れているのですが。

信長は、金森長近と丹羽兵蔵に、刺客のもとへ出向かせ
「なんか用事か? だったら信長様に会って挨拶をしてこい」
と、伝えさせ、結果、戦わずして事を収めてしまうのです。

美濃からの刺客を、美濃の事情に詳しい者に任せる――というのは、ある意味、博打でもあります。
もしも刺客を呼び込んだのが当の長近だったら、命が危ない場面でしょう。

信長が、そういった懸念を抱いていないあたり、日頃から信頼があったことを窺わせます。

 

別働隊を率いて武田軍の背後を衝け!

金森長近は、美濃攻略でも功績を挙げ、赤母衣衆の一員に選ばれています。
前田利家が率いていた馬廻衆(側近部隊)ですね。

前田利家62年の生涯をスッキリ解説!若い頃は信長とイイ仲だった!?

加 ...

続きを見る

なお、黒母衣衆の代表武将が佐々成政で、いずれも織田家臣では中心の武将たちでした。

佐々成政53年の生涯をスッキリ解説!信長の側近から秀吉の反逆者へ

1 ...

続きを見る

そんな中で金森長近は、大きな作戦をまるごと任されるということはありませんでしたが、要所要所で功績を挙げていきます。

例えば、天正三年(1575年)5月【長篠の戦い】では5,000騎を率いて、3,000騎を従えた酒井忠次と共に、鳶巣山砦を落としています。

ここは武田方の総大将・武田勝頼の背後でもあり、メインの戦場となった設楽原へ追い出すという非常に重要な役割だったところですね。

長篠の戦い(設楽原)に設置された馬防柵

この戦功で信長から「長」の字を賜り「長近」と名を改めています。
実はここまでは「可近読ありちか」と名乗っていました。

それから数カ月後。
同年8月には【越前一向一揆】を攻略のため、温見峠越えをして越前大野へ。ここから数ヶ月で平定に成功しています。

信長ももちろん高く評価し、長近に越前国大野郡の2/3を与えました。

その後は柴田勝家が最高責任者を務める、北陸方面軍の一員として動きます。

当初は信長の敵だった鬼柴田!? 柴田勝家62年の生涯をスッキリ解説!

戦 ...

続きを見る

この北陸方面軍は、先の前田利家や佐々成政、佐久間盛政なども所属しているバリバリの武闘派集団です。

あまり【武】のイメージのない金近ですが、この集団でやっていけるということは、相応の腕前・胆力だったのでしょう。

 

 

武田氏の本拠を攻めた天正十年(1582年)の甲州征伐においては、飛騨口の大将を務めました。

一度所属を決めたからってそれをガチガチには固めず、必要に応じて編成を変えていく柔軟性も、信長の大きな特徴ですね。

一方で、宥和的な方針を用いたこともありました。
この頃、土岐氏の重臣だった長屋氏から養子をとって金森可重(ありしげ/よししげ)と名乗らせ、彼の正室として遠藤慶隆えんどうよしたかの娘・室町殿を迎えています。

可重の父・景重は板取田口城。
室町殿の父・遠藤慶隆は郡上八幡城ぐじょうはちまんじょう(岐阜県郡上市)の主でした。

美しき郡上八幡城の遠景

この縁組は、軍事的なメリットもさることながら、長近からすると美濃・尾張と行き来するルートをもうひとつ確保することにもなりました。
硬軟さまざまな策を使い分ける、優秀な武将といえるでしょう。

 

運命が劇的に変わった1582年6月2日

天正十年(1582年)2月には従四位下・兵部大輔に任じられ。
さらにその後、正四位下・兵部卿に昇格。

いずれも朝廷のお役所(八省)の中で軍事関連を受け持つ「兵部省」の役職で、兵部卿が長官、兵部大夫がその次に高いポジションです。

兵部卿は皇族が就くケースも多く、源氏物語でもたびたび「兵部卿宮」と呼ばれる人物が登場しますね。

※ヒロイン紫の上の父=兵部卿宮、光源氏の弟=蛍兵部卿宮など

鎌倉幕府成立以降、兵部省の仕事は代々の幕府や将軍・武家に取って代わられていましたが、本来は衛士(諸国から上洛し、宮中警護を行う者)の管理などもしていた役所です。

長近の人物をうかがわせるエピソードがあまり伝わっていないので、これはあくまで推測ですが……。

おそらく信長は
「もしこの先、兵部省の仕事をやることになったとしても、長近なら皇族・公家から下々の者まで、誰とでもうまくやっていけるだろう」
と思っていたのではないでしょうか。

有能な司令官ならば他にもたくさんいました。
官職も同様です。

その中であえて兵部省に関するものを選んでいるあたりに、信長からの長近に対する評価がうかがえるかと。

しかし、そんな彼の順調な武将生活も突如激変します。

1582年――本能寺です。

 

嫡男は二条御所で信忠と共に……

他の家臣たち同様、本能寺の変で織田信長が斃れると、金森長近の運命も激変しました。

実はこのとき、彼の嫡男・金森長則が織田信忠と共に討死しています。

織田信忠 父・信長から家督を譲られし有能な二代目は、非業な最期を迎えた

偉 ...

続きを見る

場所は二条御所。
攻め込んだ明智軍は斎藤利三で、他にもここで村井貞勝・貞成親子や斎藤利治などが戦死しております。

長近は主君父子と息子を弔うため、剃髪して「兵部卿法印素玄」と号し、臨済宗大徳寺に金龍院という塔頭を建ててもいました。
権力争いの当事者になるつもりはなかったのでしょう。

しかし、即座に武力を捨てたとしても、潔すぎて怪しまれるというもの。
柴田勝家と羽柴秀吉が対立すると、長近は当初は勝家方につきました。

勝家とは北陸での付き合いもありましたし、土岐氏の血を引く長近からすれば、秀吉は成り上がり者ですから、すぐに従う気にはならなかったでしょう。

ですが長近は、矜持で身動きが取れなくなるようなことはしませんでした。
天正十一年(1583年)【賤ヶ岳の戦い】でも勝家方にいたものの、前田利家と行動を共にし、ここから秀吉につくようになります。
※続きは次ページへ

次のページへ >



-織田家
-

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2019 All Rights Reserved.