天正十年(1582年)6月2日は、本能寺の変があった日です。
京都の本能寺に滞在していた信長が、家臣の光秀に謀反を起こされ命を落とす――という突然のクーデター。
なぜ光秀がそんな真似をしたのか?
という動機は今なお日本史最大のナゾとされ、以下の記事に考察を載せておりますが、それとほぼ同じく不思議なのが【信長の遺体】です。
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光秀が三日天下で終わったのは、遺体を入手できなかったのが影響したという見方もあります。
では、一体誰が隠し、あるいは埋葬したのか?
そこで浮上してくるのが清玉上人という名前です。
史料的価値は疑問視されているのですが、阿弥陀寺の『信長公阿弥陀寺由緒之記録』に、この清玉上人が遺灰を持ち帰り、供養したと伝わっているのです。
本稿では、その状況を辿ってみましょう。
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信長に庇護されていた京都・阿弥陀寺の清玉上人
長島一向一揆や石山本願寺、あるいは比叡山と激しい戦いを繰り広げたせいか。
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織田信長は寺社仏閣に高圧的な人物と思われがちですが、実際は、むやみやたらに敵対していたわけではなく、真面目な聖職者には庇護を与えておりました。
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阿弥陀寺の清玉上人も、そんな一人でした。
この寺は、光秀とゆかりの深い近江坂本に創建されたお寺で、その後、信長に帰依され、京都に移転していました。
ときの天皇である正親町天皇も帰依しており、阿弥陀寺を勅願所と認めたり、清玉上人には東大寺の勧進職を任せたりしていました。
織田家からも、寄付なり何なりかの庇護を受けていたことでしょう。
阿弥陀寺は当時、本能寺から4kmほど北西の位置にありました。
現代では、京都御所を挟んではす向かいといった位置関係です。
高層建築が少なかった当時、本能寺で事が起きた早朝には、さぞかし阿弥陀寺へも喧騒や炎の明るさが届いたことでしょう。
信長はたびたび本能寺を在京時の宿所にしていました。
それだけに清玉上人が「もしや信長様に何かあったのでは?」と連想したであろうことは想像に難くありません。
前日6月1日には、公家や僧侶を40名ほど集めて茶会も催していますから、清玉上人も呼ばれていたかもしれませんね。
「遺骸が敵の手に渡らぬよう火葬をしている」
もともと寺の朝は早いもの。
2日未明に起きた事件の当日、清玉上人は本能寺へ駆けつけたと伝わります。
しかし、時既に遅し、でした。
本能寺は既に燃えており、おそらく常日頃から蓄えられていた火薬にも引火して爆破、無残な状況です。
信長の足取りを探るべく、清玉上人も周辺を歩いて回ったとされます。
なんとか残った柱や焼け落ちた木材には、まだ火種が赤く煌々としていたことでしょう。
そして本能寺の近くの藪を通りかかったとき、火を焚いている武士数名に出会います。
話を聞いてみると「信長の遺命で、遺骸が敵の手に渡らぬよう火葬をしている」とのこと。
これを聞いた清玉上人は「では、葬儀と墓所は私どもで承ります」と請け合い、火葬が終わった後の骨を阿弥陀寺へ持ち帰りました。
火葬を行っていた武士たちは、その後、信長の後を追ったとか。明智軍へ挑んでいったとか。話は枝分かれしています。
清玉上人は信長だけでなく、織田家全体に大きな恩を感じていたようで、本能寺の変で亡くなった他の武士たちも弔ったといわれています。
その中には、森蘭丸(成利)ら森家の三兄弟と、信長の跡取りである織田信忠も含まれていました。
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信忠は二条御所を明智軍に取り囲まれ、自刃していたのでした。
ゆえに清玉上人が信長の遺骨を阿弥陀寺に運んでから、もう一度二条御所へ行ったのか、別の僧侶か武士に頼んで運んできてもらったのか……その辺は不明です。
この説で行くと「明智光秀が信長の遺体を探しても見つからなかったのは、清玉上人たちが素早く火葬を行ったから」ということになりますね。そして……。
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